• 実在した忍者をご紹介!
  • 忍者の身体能力や名前、エピソードを徹底調査

あなたは、忍者についてどのような認識を持っているでしょうか?

小説や映画で描かれている、人間離れした身体能力や、幻術で敵をかく乱する猿飛佐助、霧隠れ才蔵を思い浮かべるのではないでしょうか。

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忍者とは忍術を使う人のことをいいますが、忍術は武術だけではありません。

忍術は、戦場においては敵の中に潜入して、敵の情報を収集したり、密偵術、剣術、薬学、呪術、天文学などあらゆるものを駆使して、敵情を探ったりすることをいいます

それでは、実在した忍者10人と彼らの身体能力について調査結果を説明します。

 実在した忍者10人の身体能力がスゴイ

服部半蔵

実在 忍者 身体能力

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服部半蔵と聞いて個人の名前だと思っていませんか?

実は「服部半蔵」とは個人の名前ではなく、「伊賀忍軍」の歴代党首の名前なのです。ですから、「第三代服部半蔵」というように代々に渡って、襲名していく名前なのです。

 

徳川家康に仕えていた二代目服部半蔵正成のことを、世間一般では「服部半蔵」といっています。しかし、徳川家康に仕えていた二代目服部半蔵は、忍者ではなく完全な武士だったんです。

 

遡ること室町時代になりますが、伊賀の忍者には、服部士族の子孫である「千賀地」「百地」「藤林」の三家がありました

 

三家が狭い土地において暮らしていたため、生活が苦しくなり、千賀地家の保長は、姓を旧姓の服部家に戻すと、伊賀を離れて、足利義晴に仕えます。

 

しかし、当時は室町幕府が衰退していたことから、保長は足利家に見切りをつけて、三河に移って松平清康に忍者として仕えました。

 

歴代服部半蔵の中で忍者と呼べるのは初代服部半蔵保長だけです。

 

風魔小太郎

実在 忍者 身体能力

風魔小太郎も歴代党首の名前で個人の名前ではありません

 

風魔は北条家が滅亡するまで100年仕えていました。最も有名なのは5代目の風魔小太郎です。

 

5代目の風魔小太郎は、伝説では、「身長2メートル16センチ、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な姿であったと残っています。

 

風魔一族は北条家が滅亡すると、江戸近辺を荒らし回る盗賊となり、1603年に徳川に捕縛されて滅亡したといわれています。

 

捕縛されたのは、同じ盗賊の高坂甚内(甲賀武田家に仕えた忍者)の密告によったということです。

 

加藤段蔵

実在 忍者 身体能力

別名を加当段蔵といって、忍者の技術に優れていて、その優れた技術から「飛び加藤」と呼ばれていました

 

別名が示すように飛翔技術に優れていて、身が軽く、とんなに高い塀や堀でも飛び越えることができて、「幻術を使った」といわれています。

 

しかし、あまりにも忍術に長けていたことから、仕える家々で逆に警戒されて暗殺を謀られています。

 

暗殺者の名前に2つの説がありますが、武田信玄に命令された、馬場信春(または土屋昌次)に厠に入ったところを狙われて、暗殺されました。享年67とされています。

 

百地 丹波(三太夫)

実在 忍者 身体能力

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忍者には上忍、中忍、下忍の区別があります。

上忍はいわゆる大将で忍者を統括する役目を担い、中忍は隊長の役目、下忍は兵員といえます。百地丹波(三太夫)は、伊賀一帯を仕切る土豪でしたが、裏の顔は伊賀忍者の上忍でした。

 

伊賀忍者は3人組によって統括されていましたが、百地はそのうちの一人でした。丹波の弟子に石川五右衛門がいました。

 

丹波の妻は石川五右衛門に奪われ、挙句の果てには、その妻にそそのかされた五右衛門に、妾を殺されたという話が残っています。丹波は五右衛門には散々な目にあわされたのです。

 

織田信長は、忍者の実力に恐れをなして1581年に5万の大軍を自ら率いて伊賀を攻めました。信長の圧倒的な勢力に、果敢な抵抗もむなしく、丹波は多くの一族と共に戦死してしまいました

 

この戦いを「天正伊賀の乱」と呼ばれています。百地丹波の知名度は日本はもとより、国際的にも高く、ワシントンの「国際スパイ博物館」においても忍者の代表的存在として扱われています。

 

 

藤林長門守

 伊賀の上忍には「服部家」「百地家」「藤林家」 の三家があって伊賀忍者を統括していました。藤林長門守は戦国時代の忍者で藤林家の当主です。

 

甲賀との境の湯船郡を支配していたので、伊賀だけでなく甲賀にも多くの配下がおりました。このため、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたといわれています。

 

藤林長門守は伊賀の頭目という立場ですから、色んな記録が残っていてもよさそうですが、記録はほとんど残っていなくて、その生涯は謎に包まれています。そのためか、色んな説があります。

 

例えば第二次天正伊賀の乱では織田信長の手引きを甲賀の多羅尾氏とともにおこなって生き延びた。とか、織田勢と最後まで戦った百地丹波と同一人物だとか、全く逆の説もあります。

 

記録がなく生涯が謎に包まれているということは、忍者の鏡ということかも知れませんね。

 

 

高坂甚内

実在 忍者 身体能力

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 高坂甚内は、武田氏に仕えていて甲州流透破の頭目でした。

北条氏の滅亡後、盗賊になっていた風魔一族の隠れ家を徳川に密告し、風魔一族を滅亡に追い込んだ張本人です。ですから、幕府側の人間でした。

 

ところが、その後高坂甚内は各地の盗賊を結集させて、巨大な組織を作り上げました。治安を脅かしかねない組織を作り上げたことから、脅威をもった幕府は、高坂を追い駆けます。

 

追われる立場になった高坂甚内は、逃げ回っていましたが、10年後の1613年に捕縛され磔の刑となりました。

 

高坂は瘧(おこり)、今でいうマラリアにかかっていたといわれていて、「瘧さえなければ捕まらなかった。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」と言い残したといわれています。

 

このことから、浅草にある甚内神社は、高坂を瘧に後利益のある神として祀っています

 

伊賀崎道順

実在 忍者 身体能力

 伊賀崎道順は、伊賀の忍び上手の一人に数えられる中忍で、その忍術の腕前は伊賀11人の筆頭に挙げられ、伊賀忍術49流の始祖といわれるほどです。

 

中忍というのは、大将である上忍に対して隊長ともいえる役割を担った忍者です。生まれが伊賀の楯岡であることから、楯岡ノ道順とも呼ばれています。妖術の名人ともいわれています。

 

六角義賢に仕えていたころ、義賢の配下の百々氏(どどし)が謀反を起こすと、忍者群を率いて、難攻不落と言われた沢山城に忍び込み火を放ち城を落とすという手柄を立てています。

 

また、鉄砲の名手で失敗はしましたが、信長を二度狙撃してます。このときは、信長の隣の人物に命中したという記録が残っています

 

真田忍者

実在 忍者 身体能力

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真田十勇士と呼ばれるように、真田氏は忍者を数多く採用していました。

後の真田十勇士のモデルとなった忍者5人を紹介します。

 

出浦盛清

 実名は昌相と言います。非常に優秀な忍者だったようです。真田十勇士の霧隠才蔵のモデルとなった人物です。

 

上月佐助

猿を使った忍術を使ったといわれていて、猿飛佐助のモデルとなった神仏といわれています。

 

横谷庄八郎

こちらも、猿飛佐助のモデルといわれています。大阪夏の陣で討ち死にしています。

  

唐沢玄蕃

助走なしで1.8mも飛び上がり、12mの高さから飛び降りても音を立てず着地できたといわれるほど身軽くて、その身軽さから「飛び六法」と呼ばれていました。

 

火薬術にも長けていたということです。

 

禰津信政

後の女忍者集団の「禰津流くの一」を作り上げた人物です。

 

石川五右衛門

実在 忍者 身体能力

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先ほども説明しましたが、百地丹波の弟子でした。

しかし、丹波の妻を奪って丹波の妾を殺して抜け忍となった五右衛門は諸国を放浪しながら仲間を集めて盗賊団を結成しました。

 

悪事を繰り返していましたが、相手は権力者やお金持ちだけということで民衆の英雄的存在でした。最後は捕えられて釜茹での刑で処刑されます。

 

その時に一緒に釜に入れられた子供を持ち上げていたが、自分が息絶える前に子供を釜の中に沈めた話は有名です。

 

これには、自分が息絶えた後子供が苦しまないようにと一気に子供を沈めたのだとも言われています。

 

 

鹿折信濃

下鹿折時兼ともいって、戦国時代に伊達政宗が創設した忍者集団「黒脛巾組」に属したといわれています。

 

「黒脛巾組」というのは、伊達正宗が窃盗の名人で知恵が働き、身体能力の優れたもの50人以上を集めて忍者として使いました。この集団のことを「黒脛巾組」と呼んでいました。

 

鹿折氏は葛西家の家臣であったにも関わらず、浜田氏に付いて謀反を働いたということで滅ぼされました。

 

さいごに

如何でしたでしょうか。実在した忍者10人を選んでみました。忍者は過酷な状況下で、心身を鍛えながらも目立つことなく存在していました。

 

その精神は、ますます厳しさを増す現代社会を生き残るために、見習う必要があることではないでしょうか。