• 侍と最強の刀のかっこいいエピソード7選!
  • 最強な侍と刀を画像・イラストで解説!

日本の侍は、世界各国で幅広く伝わっており、日本の文化を知る為に、日本へ渡航する外国人も年々増しています。

それほど日本の侍が世界的にも広く親しまれていることが分かります。

外国人の侍の認知度は、封健時代の日本において、何とも偉大なる戦士であり、かつ、侍の威厳は厳密なる儀礼によりもたらされているという認識のようです。

 

さらに、不名誉を受けるくらいであれば、自身の命を捨てる覚悟さえも持っているというように知られているようです。

 

ここでは、侍と最強の刀を持つ、侍のかっこいいエピソードをご紹介したいと思います。

日本の侍のかっこいいエピソード

巴御前

侍 最強 刀

キャラ

侍の中でも唯一の女性で、男性と同じくして、数々の戦地に赴き戦い抜いたと言います。

実際には、平家物語の中に登場する巴は、美しい黒髪の美女であり、神や悪魔にも対峠する構えを持つとされ、大変優れた女性射手であり剣士であると描かれているのです。

 

巴は源義仲に従い、義仲が一番信頼を置いている優秀な兵士であったと言います。そして、巴の戦いの技術は、その部隊の中で最も強い男性よりも遥かに上回るほどの技術を持っていました。

 

巴は、源平の戦いにて、最後まで戦い抜いたことで有名です。会栗津の戦いにて、巴は敵となる侍の首を取り、戦に勝利しました。侍を引退した後は、尼となったそうですが、これも真実であるかは分かっていません。

 

一方で侍である和田義盛と結婚したということも言い伝えられていますが、これも同じく真実であるかがハッキリとしていないと言います。強靭な女侍として有名な巴は、和田義盛に敗れ、彼に対し、忠誠を誓ったと伝えられています

 

源為朝

侍 最強 刀

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優れた剣術と、剣での戦闘術にすぐれ、更に弓術の技術も高いと言われている源為朝は、伝説の侍として有名です。

為朝は右腕よりも左腕が長く、それが誰よりも優れていたことから、強い弓を発射することができた人物だと言われています。源氏と平氏の戦いの際は、その為朝の強靭な左腕は、強力な攻撃力を持つとして必要不可欠なものであったと言います。

 

しかし、1170年に、為朝は平氏に捉えられ、その後、左腕を切り落とされてしまいました。そして、為朝は切腹を行い、自身の命を絶ったと言われています。

 

日本の歴史上の記録からは、自ら切腹をし、命を絶った侍の中で最初の人物であったそうです。

 

楠木正成

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南北朝抗争の際、後醍醐天皇より、軍事援助の要請を受けた楠木正成は、小地主となりました。そして、後醍醐天皇に仕え、将軍を務めることになり、大きく出世の道を歩むことになりました。

 

正成は、不屈の忠誠心を持ち、天皇にゲリラ戦術を取り、尊氏との対決を避けるようお願いしたものの、安易に拒否されることになりました。

 

このことから、天皇と正成の関係は絶たれてしまいました。それでも正成は尊氏に挑み、そこで惨敗し、自身で切腹を試みました。

 

宮本武蔵

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日本の歴史上、最も飾り立てられた侍である宮本武蔵は、多くの映画や文学作品に登場し、偉大な戦士であったとしてとても有名です。

 

宮本武蔵は1584年に生まれ、5歳の時に無二斎の養子となりました。そして13歳の時に初めての戦いを経験し、勝利します。

 

16歳の時に豊臣家側として徳川家との戦いに参戦し、その後、関ヶ原の戦いで豊臣秀吉は敗北に至りました。21歳となった宮本武蔵は、京都で有名な剣術に挑戦し、勝利をおさめました。

 

そこで片手に剣を、もう一方の手に脇差を携え、日本中を周遊し、戦士として技術向上に努めました。1612年に宮本武蔵は、ライバルである佐々木小次郎と対立しました。

 

勝負の詳細は、宮本武蔵の小刀が、小次郎の頭を打ち砕くことにより、宮本武蔵の勝利となりました。

 

本多忠勝

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本多忠勝は、徳川家の家臣として、100以上もの戦いを経験したとされる侍です。更にスゴイことに、一度も将軍に破られたことがない存在だったのです

 

1584年に豊臣秀吉が率いる大軍に対し、少数軍で戦いに挑み、その際、豊臣秀吉の胸を打ち、秀吉は忠勝と従う者の安全を保障したのだそうです。

 

その後、忠勝は関ヶ原の戦いで本領を発揮し、勝利をおさめました。そして、この戦いが戦国時代の終わりとなり、次に徳川家康の新時代となる江戸時代が始まりました。

 

伊達政宗

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伊達政宗は、源平の戦いで大活躍を見せた伊達氏の長男として生まれました。

当然、政宗が父を継ぐと誰もが思っていましたが、病気により右目の視力を失い、家を継ぐには不向きであると言われたそうです。

 

しかし、いくつもの戦いを経験し、その中でも敗北も経験した政宗は、リーダーとして基盤を築き上げ、日本で最も恐れられている侍となったそうです。そして、政宗は畠山義継や実の父親となる輝宗を殺害し、伊達氏の長となったそうです。

 

1950年に豊臣秀吉の戦地報告の要求があり、政宗が秀吉と対面した際、処刑されるであろうことを恐れたが、秀吉は政宗を逃したと言います。政宗は朝鮮への出兵の際も秀吉へ忠誠を尽くし、秀吉の死後は徳川家康に仕え、忠実な将軍となりました。

 

徳川家康

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徳川家康は、天下統一を収めた侍です。

封健社会となる日本の中で立ち回り、その座に君臨した実利的な人物として知られています。

 

徳川家康は、わずか6歳にして織田家に人質として出され、紛争の犠牲者となると言われていましたが、後に今川家に救われて無事家に戻ることができたそうです。

 

そして、家康は、自分の周囲に強い将軍を置き、同盟を結び、地番を固めました。1600年、関ヶ原の戦いで勝利し、天下統一をとりました。そして、サムライ時代に終わりを告げたと言います。

 

武田信玄

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戦国時代、日本は各地において侍同士の戦いが行われていました。

力を求めて争うことが絶えず、そんな中でも、武田信玄は「人の情け」を重んじ、時代とは裏腹に異色な存在として知られていました。

 

武田信玄は、強力な軍事力を持ち、織田徳川の連合にも打ち勝つ程の力を持っていたと言われています。そして、武田信玄は、軍に最初に銃を導入した者として有名です

 

しかし、不幸にも、銃により、武田信玄は殺害されてしまったと伝えられています。

 

豊臣秀吉

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豊臣秀吉は下位の農民に生まれ育ち、侍としての血は一切引いていない人物でした。

しかし、日本において侍の世界で生きる為には、侍の血統はとても重要でした。だからこそ、誰もが豊臣秀吉が将軍になるなど想像もしていなかったのです

 

豊臣秀吉は、織田信長の下で出世を重ね、本能寺の変において信長が明智光秀に攻められ自殺すると、明智光秀とその主従を全て滅亡に追い込んだのです。この活躍により、豊臣秀吉は織田家において認められる存在となり、織田家を構築する人物の一人に君臨しました。

 

秀吉はその後、大阪城を築きました。そして、日本に明確な身分制度を作る為に「兵農分離」を掲げ、「刀狩り」によって農民から武器を全て没収しました

 

秀吉が最期の時、朝鮮半島へ出兵を行い、2度目の出兵の際、命を落としたと言います。

 

織田信長

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サムライ時代の全盛期こそ、織田信長よりも強靭な侍は存在していませんでした。

長く続く国取り合戦において、侍が次々と現れました。それでも、信長よりも天下に近い者は存在していなかったと言います。

 

信長は、自身の身分や血筋に関係なく、実力ある大名を将軍へ昇進させ、新しい時代を築き上げました。そして、銃火器を使用した新しい戦術を作り、軍隊が止まることなく攻撃できるようその能力を発揮しました

 

ヨーロッパ各地や東南アジアにおいて、貿易を拡大し、日本に新しい文化を取り入れました。それに伴い、道路を整備、インフラを確立させていきました。

 

数々の功績をたたえた信長も、本能寺の変にて明智光秀の裏切り行為に遭い自殺しました。

 

まとめ

いかがでしたか?日本の歴史上最も有名な侍をご紹介しました。

 

どの侍も素晴らしいエピソードがいっぱいですね。改めて日本の歴史を感じましたね!!