• アインシュタインの子供・子孫の現在は?
  • マリリンモンローとの関係もあった?

アルベルト・アインシュタインは、物理学者であることは、歴史上で習ったことがあると思います。

そんなアインシュタインには子供が存在したのでしょうか?また子孫の現在はどのようになっているのでしょうか?

そして、アインシュタインがマリリンモンローにプロポーズされたという有名な話についてご紹介したいと思います。

アルベルト・アインシュタインとは

 

アルベルト・アインシュタインは、1879年3月14日、ドイツに生まれた理論物理学者です。

特殊相対性理論や一般相対性理論、その他、相対性宇宙論、更にはブラウン運動の起源を説明し、光量子仮説、個体比熱理論、零点エネルギーなど、様々な業績を誇り、世界的に有名な存在である偉人としてたたえられていました。

 

また、20世紀において最大の物理学者であり、現代物理学の父と呼ばれていました。光量子仮説については、1921年にノーベル物理学賞を受賞した最高峰の人物です

 

アインシュタインの子供・子孫について

ハンス・アルベルト・アインシュタイン(長男)

ハンス・アルベルト・アインシュタインは、1904年5月14日生まれで、カリフォルニア大学バークレー校において水理学者としてその名は有名でした。様々な研究を行い、「アインシュタイン型掃流砂量式」に名を残した人物です。

 

ハンス・アルベルト・アインシュタインは、物理学者であるアルベルト・アインシュタインと、ミレヴァ・マリッチとの間に生まれ、姉と弟の3姉弟で育ちました。姉の名はりーゼル、弟の名はエドゥアルトです。

 

エドゥアルト・アインシュタイン(次男)は統合失調症で他界

ハンスの父であるアルベルト・アインシュタインは、父と共にアメリカ合衆国に逃れ、その後、1910年に弟のエドゥアルト・アインシュタインが生まれましたが、彼は統合失調症を患ったことで、1965年に死亡しました。

 

リーゼル・アインシュタインの消息は不明

姉のリーゼル・アインシュタインは、1902年に生まれていますが、すぐに養女に出され、その後の生息は不明と言われています。また、アルベルト・アインシュタインは1919年に離婚しているようです。

 

そして、ハンスは1927年にフリーダ・クネヒトと結婚し、1930年に後に物理学者となるベルンハルト、1932年にクラウス・マーティン、そして、1941年養子のエヴリンを設けました

 

しかし、妻に先立たれたのですが、後にエリザベス・ロボーツと結婚しました。1955年に父であるアルベルト・アインシュタインが倒れ、その後他界しました。

 

アインシュタインがマリリンモンローに迫られた?

私達の生きる現代において、その科学にとてつもなく大きな影響を与えたとされる相対性理論を説いたアルベルト・アインシュタインは、、学校を中退し、無国籍となり、彼の人生は波乱万丈でした。

 

妻と離婚する際、子供への養育費はノーベル科学賞の賞金で支払うなどといった契約を交わし、そうかと思えばイスラエル大統領の座を辞退するなど、とにかく周囲の人々が常識知らずのアルベルト・アインシュタインを見て驚きを隠せなかったと言います。

 

そして、アメリカ人となった際は、それまでの功績があまりにも偉大すぎたことで、アインシュタインの名は世界各国で知られるようになっていたのです。

 

その為、ハリウッドスターから人気が高く、マリリン・モンローがアルベルト・アインシュタインに迫り、プロポーズを行ったという有名な逸話が残っているのです。

 

アインシュタインの人生・エピソード

数学の才能がありながらも学校を退学

アルベルト・アインシュタインは、1879年にドイツに生まれ、幼少の頃は3歳まで声を発することがなかったと言います。両親はそんなアインシュタインを心配していたと言います。

 

その後、日本の子供と同様、小学校に通い、9歳になる頃には上級学校へと進学をしたのです。すでにアインシュタインの能力はこの時分から天才を発揮していたそうです。

 

優秀な教科と言えば数学です。しかし、学校を好むことはなければ、教師に対しての思いもない子供であったことから、学校を退学してしまいます

 

戦争国であったドイツを嫌い無国籍人へ

国家が戦争を行う時代であったこともあり、ドイツに生まれておきながらも自身がドイツ人であることを不憫に思い、国籍を放棄してしまいました。17歳にして無国籍人となったのです。

 

その後、スイスのチューリッヒ工科大学へ入学し、22歳の時にスイス国籍を取得したアインシュタインは、その年に兵役の義務を負うことになりました。しかし、へん平足であったり、多汗症であったり、静脈瘤があることが理由で、兵役に不合格となってしまいました。

 

ミレヴァ・マリッチとの結婚・離婚

24歳の時に、ミレヴァ・マリッチと結婚し、翌年に長男ハンスが誕生しました。この時は仕事がなく、37歳の時に一般相対性理論を発表しました。

 

そして、最終的にはミレヴァ・マリッチとは離婚に至ってしまうものの、まだノーベル賞を受賞していないにも関わらず、離婚に伴い必要となる養育費の支払いを賞金で行うことを約束したのだとか。

 

結果、43歳で物理学賞を受賞したことで、養育費の支払いの約束を守ったというのです。ノーベル賞の受賞が確約されていた訳ではないうちから約束を交わすというのも、常人の理解を超える方法であると言えますね。

 

アインシュタインは大統領の座を辞退し科学者に

キャラ

晩年になる頃、アインシュタインはアメリカ国籍を取得しました。

そして、チャールズチャップリンのパーティにも出席するなど、ハリウッドスターから人気と注目を集めていたのです。

 

アルベルト・アインシュタインには、マリリン・モンローとの逸話が有名でもあり、あんな大スターからのプロポーズでさえ、受け止めることもなく、あっけらかんと断るツワモノとしてさらにその名を世界に轟かせたのです。

 

マリリン・モンローは、アインシュタインに、「私の美貌とあなたの頭脳を授かる赤ちゃんは、さぞ素敵でしょう」と言い寄るも、「その逆になってしまったら最悪なのでやめておこう」と断られたのだとか・・・。

 

当時の絶世の美女でもあり、これほどの大スターは存在しないと言われていたマリリン・モンローからのお誘いは、天才頭脳を持つアインシュタインにはかなわなかったようです。

 

イスラエル大統領としてのオファーを辞退

そして、アインシュタインが73歳の時、イスラエル大統領就任についての要請があったにも関わらず、あっさりと辞退

 

大統領という人生を歩むのではなく、科学者として生きる道を選んだと言われています。その3年後、76歳でアルベルト・アインシュタインの一生は幕を降ろしました。

 

まとめ

いかがでしたか?アインシュタインの子供や子孫について、また、アルベルト・アインシュタインとマリリン・モンローとの有名な逸話についてご紹介しました。

アインシュタインは幼少の頃から学校や集団生活を好むことなく、様々な兵役検査にクリアできず、兵役を負うことのない生活に。

そして、まだ受賞してもいないノーベル賞をあてにして、離婚の際の子供の養育費支払いの約束をするなど、一般人にはなかなか考えもつかないことをやってのけてきた人物であることが分かります。

また、相対性理論を生み出したアインシュタインの才能に惹かれた多くの女性がアインシュタインに言い寄り、気に入ってもらおうと様々な努力を重ねるも、アインシュタインは微動だもせず。

 

ハリウッド人気スターのマリリン・モンローでさえ、アインシュタインの才能に惹かれ、思いを寄せていたというのですからすごいですよね。

 

もしも歴史上でアルベルト・アインシュタインとマリリン・モンローの子孫が存在していたとしたら・・・

 

一体どんな美しい美貌で、かつどんなに天才な頭脳を持った子供が誕生していたのだろうと思いますね。ふと、その架空の子供を想像してしまいます(笑)

 

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