- 花魁で有名な人5選!
- 吉原の有名人をエピソードと一緒にご紹介
あなたは、花魁(おいらん)についてご存知でしょうか?
花魁は、江戸時代に誕生した吉原遊廓(よしはらゆうかく)の遊女屋(ゆうじょや)で働く女郎(じょろう)の中で、位の高い者のことをいいました。
花魁の語源については、諸説ありますがはっきり分かっていません。
花魁は美しいだけではなく、15歳くらいまでの間に琴や三味線、舞踊、和歌、お茶やお花などをみっちり仕込まれました。
吉原の花魁の中で有名な5人を選んでみましたので、エピソードと一緒にご紹介します。
花魁で有名な人5選!
薄雲太夫
元禄年間の太夫として有名な遊女です。
生まれは信州埴科郡鼠宿で、玉井清左衛門の娘として生まれ、名前を「てる」といいました。
猫に「玉」と名前をつけ大変可愛がっており、多くの逸話があります。その一つに、玉が「招き猫」の元になったという説です。
薄雲は「玉」を可愛がっていましたので、玉は何処にでも薄雲についていっていました。
厠(かわや)にも一緒に入りたがることがあって、あまりにもしつこいので、薄雲の女郎屋だった三浦屋の者が、猫が薄雲に取り憑いたと思って、玉の首を切り落としてしまいました。
すると、切り離された玉の首が厠の中へ飛んでいって、厠の中に潜んでいた蛇の頭に噛みついたのです。玉は、蛇から薄雲を守ろうとして厠についていこうとしていたのですね。
薄雲は玉を不憫(ふびん)に思って、丁寧に葬り、伽羅(きゃら)の香木を京都から取り寄せて、玉の像を作らせました。これが招き猫の元になったということです。
薄雲はその後源六という人物に350両という大金で身請けをされます。その際の証文が残っていて、 下記はその現代語訳です。
元禄13年(1700年)の薄雲身請の証文
「薄雲という太夫はまだ年季の途中でありますが、私の妻にいたしたく、色々な所へ相談し許可を得ました。
また、衣類や夜着、蒲団、手荷物、長持ちなども一緒に引き取ることといたしました。酒宴のための酒樽代金350両をあなたに差し上げます。
私は今後、御公儀より御法度とされている町中(の女郎)やばいた、旅の途中の茶屋やはたごに遊女がいる場所へは出入りをいたしません。
もし、そのようなことをして薄雲と離別するようなことがあれば、金子100両に家屋敷を添えてひまを出します。
これを後日の証文といたします。
元禄13年辰7月3日 貰主源六、証人平右衛門、同じく半四郎。四郎左右衛門殿」
薄雲が身請けされた後、どのような生涯を送ったのかは不明ですが、離別はされていませんので、幸せな生活を送ったのではないかと思われます。
2代目高尾太夫(万治高尾。仙台高尾・道哲高尾)
2代目高尾太夫は、和歌を好んで書も堪能で、俳諧にも名前があり、現代で言う才女でしょうね。
金銀にものをいわせる客には、目もくれなかったといわれていて、義侠心に富んでいたそうです。
2代目高尾太夫は、万治年間に仙台藩主の伊達綱宗(だてつなむね)に見染められ、身請けされました。
その際、自分の体重(約75㎏)と同じ額と、装身具も含んで八貫分(約30キログラム)の衣装という大金で身請けされました。
この際に、体重分の金を払うということでしたので、高尾太夫の雇い主は、店中のありとあらゆる着物や飾り物を彼女につけさせて、体重測定を行ったということです。現代の金額に換算すると5億円というとてつもない金額ですね。
しかし、高尾太夫は、鳥取藩士島田重三郎が好きだったため、身請けされて、半年間経っても伊達綱宗には肌を許さなかったそうです。このことからも、高尾太夫が義侠心に富んでいたことが分かりますね。
殿様の意に従わなかったため、その後、部屋に幽閉され「10本の指を裁ち落す」といわれても、かたくなに拒むことから、船の上で惨殺されたといわれています。
惨殺された経緯について、伝えられている話では、万治2年12月の或る日、綱宗公は高尾太夫を船に乗せ大川(今の隅田川)を下っていました。
船の中で、仙台で一緒に暮らそうと誘いましたが、高尾太夫は誘いに乗らず、首を縦に振りません。
殿様が大金を積んだにも関わらず、高尾太夫は意に従いません。殿様が豪を煮やして、抵抗する高尾太夫を裸にすると、逆さづりにして切り殺したといわれています。
吊し切りする鮟鱇 (あんこう) のことを「仙台さま」と呼ぶらしいです。このことから、あながちフィクションでもないかとも思われます。
2代目吉野太夫
伊東深水「吉野太夫」「太夫」は名前を引き継がれていきますが、大名跡である「吉野太夫」の中でもっとも有名なのは「2代目・吉野太夫」です。
また夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれております。彼女の命日は吉野忌として俳句の季語にもあります。
太夫になったのは14歳という若さで、美貌もさることながら、楽器(琴、笙(しょう)、琵琶)を巧みに操り、書道、茶道、囲碁にも才能を発揮し、和歌や俳諧などの文学にも優れているという天才的な女性でした。
日本国内だけでなく、当時の明にも「東に林羅山(はやしらざん)、西の徳子よし野」と言われるほど名が知れ渡っており、その才能と美貌が知られていました。
当時の関白近衛信尋や豪商の灰屋紹益などもなじみの客でした。吉野はまた、慈悲深い女性として誉めたたえられてています。
その逸話として、吉野を見染めた刀鍛冶職人駿河守金網の弟子が、爪に火を灯すようにして貯めた53匁をもって島原に向かいました。
しかし、太夫の相手となる格には遠く及ばず門前で追われました。そのことを不憫に思った吉野はその男をひそかに招き、思いを遂げさせたといいます。
井原西鶴の「好色一代男」に、「なき跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也いづれをてひとつ、あしきともうすべきところなし。情第一深し」と非の打ちどころのない遊女として、描写されています。
吉野太夫は26歳の時に、吉原を出て豪商の灰屋紹益と結婚しました。当時の関白近衛信尋や豪商の灰屋紹益が吉野太夫の身請けを競って、灰屋紹益が勝って、正式に妻として迎え入れたのです。
結婚後は質素に暮らして38歳で亡くなっています。
紺屋高尾
古典落語「紺屋高尾」にヒロインとして描かれているのが5代目・高尾太夫です。
落語のあらすじは「染物職人の久蔵は生真面目な性格で仕事一筋でした。
久蔵は吉原見物で、稀代の美女・高尾太夫に一目惚れしてしまいました。
花魁は大名道具といわれ、庶民には手の届かない高嶺の花だった頃です。久蔵が、様々な問題を乗り越えながらもめでたく結婚し、2人で染物屋を繁盛させる・・・」ということです。
落語ですから、フィクションの部分も多いといわれています。実際には、5代目の高尾太夫は、染物職人の紺屋九郎兵衛に嫁ぎます。
その後、夫婦そろって何とか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案します。
すると、その染めの速さと粋な色合いがブームとなり、吉原に繰り出す遊び人を中心に、手拭いが流行し、店は大繁盛となりました。
5代目高尾太夫は3人の子宝に恵まれ、84歳の生涯を終えました。
6代目榊原高尾(7代目という説も)
遊女出身者の中で唯一大名の側室になった女性です。
正室が亡くなって気落ちしていた、姫路藩の第3代藩主榊原政岑(さかきばらまさみね)が、気晴らしに吉原に出かけました。その際に出会ったのが高尾太夫でした。
榊原政岑は、高尾太夫の美しさに一目で惚れて高尾太夫の気を引こうと吉原で豪遊します。高尾太夫を身請けする際には、約2,000両といわれる大金を払っています。
しかし、当時は8代将軍徳川吉宗が「享保の改革」といわれる厳しい倹約令を発布していました。
吉原で豪遊をしていた政岑は咎(とが)められ、将軍・徳川吉宗の政策に反するとして強制隠居させられ、越後高田へ国替えさせられてしまいます。
政岑は越後高田では自ら倹約を率先して行い、飛び地分を隣接地に付け替えられることに成功し、藩財政が安定しました。
また民のことを思った施政を行ったことから、名君とされています。高尾太夫は政岑を支え「榊原太夫」と呼ばれ、貞淑(ていしゅく)で賢いと評価されています。
政岑は36歳で亡くなりますが、太夫は江戸の下屋敷で暮らし、天(明91789)年に68歳の生涯を終えています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。5人の花魁の生きざまを見てきました。幸せって人それぞれですよね。
5人の結末は色々でしたが、5人に共通していたのは、筋の通った覚悟をもって、自分の信じた幸せを追い求めて、カッコよく生きたということではないでしょうか。
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