• 魔女狩りは現代の日本でも行われてる?
  • 中世ヨーロッパでの歴史も解説

魔女狩りと言えば、中世ヨーロッパで起こった出来事と考える人が多いでしょう。

ある人を「魔女だ」と言って、裁判にかけて処刑したり、村や町の人たちで私刑にしたりと、何十万人、何百万人が殺されたと言われています。

社会的不安からくる「集団ヒステリー」だったという説が有力なようですが、今だになぜこうした現象がおこったのか、納得のいく説明はありません。

 

その魔女狩りが、現代の日本でも行われているとしたら、どう思いますか。

魔女狩りとは何か?

魔女狩りとは、魔女あるいは妖術を使うと疑われる者を裁判にかけて刑罰を与えたり、法的手続きを取らずに死刑にする迫害のことを言います

 

魔女狩りと言うと、中世ヨーロッパの暗い時代と直結させるイメージがあるのですが、実は古代から妖術を使ったと思われる者に対する刑罰は行われていました。

 

ただ、中世に入ると、悪魔という存在がクローズアップされ、魔女や妖術を使うと思われる者は悪魔と結託してキリスト教社会を破壊しようと企んでると考えられるようになります。

 

こうした「魔女」の定義が広まり、15世紀から17世紀初期にかけて、魔女狩り、魔女裁判が大規模にヨーロッパ各地で行われました。

 

魔女狩り=中世ヨーロッパの暗黒時代というイメージがありますが、魔女狩りは近代初期と言われる16世紀、17世紀にかけてピークを迎えるのです

 

また、「魔女」の定義がキリスト教に対する背教者ということからキリスト教会主導で魔女狩りが行われたイメージがありますが、現代の研究から、実は民衆側が主導していたということもわかりました。

 

魔女狩りの一番恐いところは、裁判にかけられたとしても現代のように物的証拠を重視するわけではなく、人々の証言や拷問による自白で、「あなたは魔女です」と決めつけられてしまうところです

 

魔女狩りは現代日本でも行われている?

魔女狩りが、いわゆる「集団的ヒステリー」現象であるならば、これは昔のことだけではなく、現代でも起こりうることではないでしょうか

 

例えば、現在よく聞く「ネット炎上」という現象は、一個人の意見を不特定多数の人たちが総批判し、時には意見を発した個人が社会的制裁を受ける場合もあり、現代の「魔女狩り」とも言えるのではないでしょうか。

 

昨年、俳優の伊勢谷友介さんがスマップの解散報道を「あほくさ」とツイッターに投稿して、ネット炎上しました

 

「あほくさ」という表現は大人気なく、確かに批判の対象になるような表現ではあるのですが、ネット炎上するほど、こぞって批判するような意見でしょうか。

 

過剰に反応し、ヒステリックに意見をネットに書き込む大衆心理が「魔女狩り」を推進した民衆の心理と似ているのは否めません。

 

また、ネット上でおかしな表現や発言を見つけて、ネット炎上させようとする「密告者」がいることも、「魔女狩り」の状況と似ています

 

現代はインターネットやスマートフォンの普及に伴い、個人の意見が容易に他人の目にさらされるようになりました。

 

その分、慎重に意見を述べる必要があると思いますが、個人の自由な発言が制限されることは重大な問題です。

 

残念ながら、私たちは新しいタイプの「魔女狩り」の時代を生きていると言えるのかもしれません。

 

魔女狩りはいつ始まった?
なぜ始まり、どのように終わったのか

魔女狩り以前の魔女狩り=異端審問

12世紀に入り、ヨーロッパではカトリック教会が正統信仰に反する教えを持つ疑いのある者を裁判にかけるようになります。こうしたシステムを異端審問と言います

 

この背景には、「カタリ派」や「ワルド派」などの異端の運動が広まりを見せていたことがあります。

 

「カタリ派」や「ワルド派」は清貧な生活を推奨し、世俗的な教会権威を認めなかったために、異端とされました。この異端審問は極端な様相を呈していきます。教皇に反対するだけで、「異端」とされてしまったのです。

 

そして、「異端」を探すことにやっきになった教会側は密告を奨励します。こうした「異端」探索には、個人的な恨みも重なっていたと容易に想像できます。邪魔者を消すために異端審問が利用されたとも言えるでしょう

 

魔女狩りの始まり

魔女狩りが始まる背景には、こうした異端審問の流れがあります。14世紀にはヨーロッパでペストの大流行があり、社会的不安が増大します

 

また、キリスト教自体も退廃してきており、この社会的疲弊が魔女狩りを大規模にさせました。

 

1320年に、ローマ教皇は「異端審問の中で魔女裁判を正当なものとする」としたのです。

 

学者のノーマン・コーンによると、1428年にスイス、ヴァレー州で行われた異端審問所で魔女が扱われたのが、最古の記録だそうです

 

この地方では、ワルド派の異端追及が行われており、異端の集会が魔女の集会のイメージへと取って変わったと言えます。

 

魔女狩りへの決定打

15世紀には、魔女や魔術に関する書物がブームになります。

 

1486年にドミニコ会の修道士ハインリヒ・クラーマーによって書かれた「魔女に与える鉄槌」は、魔女狩りに決定的な影響を与えます

 

この本の目的は、魔女発見の手順やその証明方法、魔術を使うのは男性より女性が多いこと、魔術を疑う人々への反駁を記すことでした。

 

さらに、当時の教皇が著者への回勅を出し、著者がそれを本の序文に掲載したことにより、より一層魔女狩りを推し進めることになりました。

 

この本は、当時のベストセラーで1669年まで16版も出版されることになります。ヨーロッパ各地では、この本を拠り所に魔女発見、魔女裁判が行われることになります

 

皮肉なことに、一つの本をもとに魔女狩りが行われたため、裁判では「魔女」とされる人々から似たような自白が取られ、それがまた「魔女」に対する恐怖心や妄想を人々に広めることになりました。

 

近代に入り、印刷術が発達した結果、こうした現象が起こってしまったのです。

 

魔女狩りの衰退

17世紀末になり、魔女狩り、魔女裁判は急に衰退していきます。

 

これには、決めてとなる説がありませんが、知識階級の世界観の変化に伴い、魔女、魔術の捉え方が変わっていったということは言えます

 

この時期、ガリレオやニュートンの登場により自然科学が発達します。

 

それと同時に、今まで世界は神と悪魔の争いとして捉えられていたのが、世界の中でも人間の自律性が認められ、魔術という超自然の力が影を潜めるようになります。

 

こうして魔女裁判は引き続き行われるのですが、無罪放免というケースが増えて、以前のような理不尽な拷問や処刑はなくなっていきます。

 

最後にヨーロッパで魔女裁判が行われた記録は、1793年のポーランドです

 

衰退したからといって、すぐになくなったわけではなく、19世紀間近まで続いていたことから、魔女狩りの影響がいかに大きかったかがわかります。

 

魔女のイメージとは?

「魔女」のイメージは、グリム童話の「白雪姫」やアニメなどの影響から、かぎ鼻の老婆でホウキにまたがって飛ぶというイメージが強いですよね

 

そして、クロネコを飼っていたり、黒い三角帽に黒い服を着て、魔女の集会をするというイメージもあります。

 

こうしたイメージはどこから作られていったのでしょうか。

 

老婆=産婆=魔女

まず、魔女=老婆というのは、「魔女に与える鉄槌」の中に産婆と魔女の関係についての記述があり、それが影響を与えていると思われます

 

当時の産婆は、妊婦のために薬草を使っていましたが、その薬の作り方などが他の人からすると神秘的な超自然的な力と見られたのでしょう。

 

さらに、お産には死産や生まれてすぐ子供が亡くなるということも、当時はよくあることでした。それが、産婆=魔女の仕業ということになってしまったのです。

 

魔女は一人暮らし?

こうした老婆の魔女は、人知れず妖術や魔術を使うというイメージから、人々から離れた森の中の住処で一人で暮らしているという想像が広がりました。

 

ただ、中世ヨーロッパ当時は、魔女は群れてるものと考えられていましたが、後にグリム童話の影響で森の中でひっそりと暮らす魔女のイメージが作られたのです。

 

魔女は集会を開く?

魔女たちが度々集まって集会を開くというのも、魔女のイメージとしてありますね。

 

これは、まず異端者たちの集会がもとになっています。集会に集まった魔女が悪魔を崇拝し、子供達を捕まえて食べるというイメージも広がりました

 

それは、異端者たちがそういうことをしていたと言われていたからなのです。

 

魔女の集会が「サバト」と呼ばれるのは、当時の反ユダヤ主義がヨーロッパに蔓延し、魔女の概念と結びついたことが原因です

 

「サバト」とは、もともとユダヤ人にとっての安息日を意味します。

 

ユダヤ人たちが安息日に一緒に群れていたのが、魔女の集会のイメージと重なったのかもしれません。

 

そして、魔女の「かぎ鼻」もユダヤ人と結びついた結果の産物です

 

こうした魔女のイメージは15世紀に完成し、今でもこのイメージはほとんど変わっていませんね。

 

魔女狩り将軍がいた?

「魔女狩り将軍」の登場

魔女狩りは、16世紀、17世紀にピークを迎えますが、この時期に「魔女狩り将軍」と自称する男が登場します

 

1644年から1646年にかけてイギリス東部を中心に、魔女狩りを行い、無実の人300人を処刑し、多額の利益を得たという、何とも極悪な人物です。

 

自称「魔女狩り将軍」は、マシュー・ホプキンスと言い、もとは弁護士をしていましたが、たいして有能ではなく、生活に困っていました

 

そこで、イギリス政府から魔女狩りを任されてたと嘘をついて、各地方を周り、魔女狩りを行ったのです。

 

魔女狩りをする際に、ホプキンスは地元住民から特別徴税を徴収しました。記録では、当時の庶民の年収にあたる20ポンドを受け取ったとあります。

 

彼が魔女狩りをしたのは、たったの3年弱ですが、その間に数百ポンド、千ポンドの利益を得たとも言われています。

 

「魔女狩り将軍」の魔女発見方法

彼の魔女発見方法は、違法スレスレだったと言われています。まず、イギリスでは拷問は法的に禁止されていました。

 

魔女を発見するために、ホプキンスは、魔女と疑われる人を部屋に閉じ込め、長時間歩かせて疲労困憊させた上で自白をとるというものでした

 

それでも効果がない時は、「水責め」を行いました。当時、水は聖なるもので悪魔を受け入れないと言われていました。

 

それを利用し、魔女の疑いのあるものを紐で縛り、水に浮かべば有罪で「魔女」、水に沈めば無罪というものでした。

 

有罪なら「魔女」となり死刑になります。無罪であれば溺死で、いずれにしても、命を落とすことには変わりません

 

また、「針刺し」という方法も用いました。魔女ならば悪魔と契約を交わした時に体に何らかのマークをつけられ、マークの部分は何をしても痛みや血が出ることはないと言われていました。

 

そのマークを探して、針で刺して痛みや血が出なければ「魔女」であるという方法です。

 

ホプキンスが利用した針は、針の部分が体に当てると持ち手の柄の中に引っ込むようになっていました。まるで、映画の小道具みたいですね。そうして、無実の人たちを「魔女」に仕立てあげたのです。

 

魔女狩りを商売にした「魔女狩り将軍」

彼の魔女狩りの標的になった人たちは、主に貧しく教養のない女性で、一人で暮らしており、ペットに猫や犬を飼っていたことが多かったそうです

 

猫や犬は、当時悪魔の使い手とも考えられていました。

 

こうした強引なやり方で多額の税金を徴収するというやり方は、次第に非難を集め、1646年には「魔女狩り将軍」は廃業に追い込まれました

 

魔女狩りを利用した悪徳商売と言えますが、それにのってしまった人たちがいたということです。

 

現代にも起こりそうな事件のようで、いつの時代も人間の心理というのはあまり変わってないと思わざるを得ません

 

魔女裁判とは?魔女である証拠は何か?

魔女狩りには、民衆の手による死刑と法的な裁判による処刑がありました。

 

裁判と言うと、一見法的手続きを取っているような形ですが、魔女の証拠となるものは、当てにならない証言と拷問による告白などでした

 

あまりにも前近代的な裁判

有名な魔女裁判としては、15世紀に行われたフランスのジャンヌ・ダルクの裁判があります。これは、政治的な意味合いが背景にある魔女裁判でした

 

この裁判はジャンヌが異端者か異端者でないかを問う裁判でしたが、物的証拠というものは何もありませんでした。

 

結局文盲であるジャンヌが異端を認めたという改ざんされた供述書に署名させられて、火あぶりで処刑されてしまったのです。

 

また、1633年のイギリスでは一人の少年の証言により、30名近い人たちが「魔女」として投獄されました

 

少年は森に行った時に魔女の集会に行きあったと証言したのです。

 

その後、国王の侍医が「魔女のしるし」を体にあるかどうか検査したのですが、誰も「魔女のしるし」を持っていなかったため、釈放されました。

 

この少年を調べたところ、父親から教えられた作り話をしゃべって心付けをもらおうとしたと告白し、少年の証言は全くの作り話ということがわかりました

 

このケースは容疑者が無事釈放されるという結果になりましたが、多くのケースが何の根拠もない証言で容疑者が処刑されてしまいました。

 

また、この時期には残酷な拷問も多く用いられました。例えば、棘のある鉄製の椅子に座らされ、椅子の下から火を焚かれたらどうでしょうか。

 

鉄の椅子がどんどん熱くなり、自白せざるを得ないことが容易に想像できます。

 

このような証拠にもならない証言、自白せざるを得ない拷問にかけられての裁判で、一旦「魔女だ」と疑いがかけられたら、逃れようのない状況に置かれてしまうのです

 

人間がいかに恐ろしい存在か、よくわかりますね。

 

魔女狩りはヨーロッパだけじゃない

魔女狩りは、ヨーロッパだけで起こったことではありませんでした。

 

1692年、植民地時代のアメリカ、ニューイングランド地方、マサチューセッツ州のセイラム村でも大規模な魔女裁判が行われました

 

魔女狩りの発端

セイラム魔女裁判として有名な、この魔女狩りの発端は、村の少女たちのたわいのない集まりでした。少女たちは、親には内緒で降霊会に参加していたのです

 

そこで、次々と少女たちが奇妙で異常な行動を取るようになり、少女たちは悪魔憑きと医師に診断されます。

 

牧師が悪魔祓いをしますが、失敗します。少女たちの中の一人、ベティ・パリスの父サミュエルが南アメリア先住民の使用人ティテゥバを疑い、拷問にかけてブードゥーの妖術を使ったと自白させるのです。

 

さらに、少女たちにも詰問し、少女たちは3人の「魔女」の容疑者を告発します。3人の容疑者たちは村の中でも立場の弱い人たちでした

 

魔女裁判の始まりと終焉

1692年2月29日ティテゥバを含む容疑者の予備審査が行われます。

 

そこで、証人として列席していた少女たちが突然暴れだし、容疑者のうち二人の仕業とされ有罪となります。

 

その後、ティテゥバは自白すれば減刑されるということから、悪魔との契約を認め、求められるままに他の人物の名前を語り、200名近い人が告発されることになります

 

こうして収監施設がパンク状態になったころから、特別法廷が始まり、有罪となったものから順次に絞首刑となっていきました。

 

その結果、19名が処刑、1名が拷問中圧死、5名が獄死(2名の乳児を含む)しました。

 

1692年の秋頃には、少女たちの証言に疑問を持つ人たちが出てきて、事態を知った州知事が裁判の停止を命令して、セイラム魔女裁判は終わります

 

セイラム魔女裁判の意味

セイラム魔女裁判の出来事は、植民地時代のアメリカにおける集団ヒステリー現象と捉えられています

 

その背景には、児童虐待やピューリタン社会の抑圧があったとも考えられており、アメリカの歴史に影を落としています。

 

まとめ

人類の歴史の中で「汚点」と言っても過言ではない魔女狩りの歴史ですが、こうした集団的ヒステリー現象が広範囲に約300年にも渡って行われた原因については、今もって納得のいく説明はありません。

 

ただ、この歴史から多くを学ぶことはできます。人を裁くことに対する慎重さ、告発や証言の真偽を見極めることなどなど。

 

「魔女狩り」が私たちに投げかける問いを、謙虚に受け止める必要があるのではないでしょうか。

 

魔女・悪魔について