• 花魁の仕事とは?
  • 江戸時代の吉原での仕事内容を徹底調査!

江戸時代の吉原で最高ランクに位置する遊女は「花魁」か「太夫」です。

そして、その後、18世紀の終わりになると、太夫は存在しなくなり、花魁が最高ランクの遊女として知られるようになりました。

ここでは、江戸時代を栄えた花魁の吉原での仕事内容について徹底調査してみました。

花魁とは?

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花魁は、江戸時代の吉原遊郭の遊女であり、高位ランクに位置する女性を指します。

18世紀中頃に、吉原のかむろや新造が、姉女郎のことを「おいらん」と呼んだことが始まりでした。実際の「花魁」の語源は、「おいらのところの姉さん」から始まっています

 

そして、江戸時代の最高位遊女を「太夫」と呼び、その後宝暦年間に太夫は消滅し、その後からは、高級遊女は全て「花魁」と呼ばれるようになりました。

 

花魁の1日の過ごし方は?

花魁の1日の始まりは朝が早く、前日の夜から寝ている客と共に起き、客を送り出してから2度寝すると言われています。それでも早朝4時頃には起床していたというのです。

 

2度寝したとしてもゆっくりと寝ている暇はなく、午前10時頃には起き、それから朝食を摂ったら入浴など身支度を整え、掃除をします。

 

吉原の風呂屋は正午には閉店してしまう為、それ以前に入浴しておかなければならなかったのだと言います。そして、正午からは昼見世が始まります。

 

まだ花魁の出番ではない為、風呂からあがった後は、化粧をし、着付けを行い、2時間ほどかけて行うそうです。着付けや化粧が終了したら、昼食が摂れるというスタイルでした。

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花魁道中まで少し時間がある為、馴染みの客に手紙等を書いていたといいます。

そして、夕方16時頃になると、花魁道中が始まり、午後18時にはその日お客を相手にした酒宴となります。酒宴には芸者や取り巻きがいて、とても派手に行われるようです。

 

客と床付けとなるのは午後10時前後であり、相手により日付が変わり午前2時頃まで戯れなければならないのです。このようなことから、花魁の就寝時間は全くもって不規則であり、寝る暇のない毎日を過ごしていたのです。

 

遊女(花魁)の歴史

江戸時代、傾城という遊女があちらこちらに点在しており、徳川幕府は遊女屋を認可していました。徳川幕府が提供した場所が吉原です

 

これが江戸で初めての遊郭となり、1617年に明暦の大火で消失して、浅草方面に移転しました。吉原遊郭として京都の島原遊郭などと並び栄えたのです。

 

その中でも吉原は日本一の町と言われ、敷地面積は2万坪に及び、遊女は軽く数千人といたと伝えられています。

 

そんな吉原遊郭は、明治以降は縮小され、1957年に売春防止法施行により、340年続いた営業に幕を下ろしたと言います。

 

高級遊女とされた花魁は、1950年に行われた花魁道中が最後の舞台であったそうです。

 

花魁の仕事とは

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花魁の仕事は遊女であり、同じ遊女にもランクがありました。

最上級の花魁ともなれば、そこには教養や踊りなど、女性として全ていおいて心得を持った者でなければ務まりませんでした。その品格の高さから、自身の気に入らない客を断る強さもあったそうです

 

遊女であることから、仕事は男と一夜を共にするものであり、避妊は和紙を丸めたものを膣に詰めるだけといったものでした。

 

当然、妊娠することもある遊女は多く、中条流と言う名の堕胎専門とされる婦人科医もいたそうです。

 

お客は自分好みの娘ができれば、他の遊女と遊ぶなどもってのほかだという仕来たりもあり、それを面倒と感じた男は、夜鷹を買い、芸者を呼ぶなど、楽しく遊んでいたようです。

 

現在の吉原遊郭とは

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現在、吉原で遊ぶ際は、事前予約をしたり、直接来店したりといった方法をとります。

しかし、江戸時代ともなればその仕組みも現在とは当然異なります。客はお目当ての女性と肉体関係を持つ為には、最低3回通う必要があったそうです。

 

1回目、2回目に来店しても、遊女の顔を見る程度で、何もできません。それなのに高額な費用を支払う必要がありました。それだけではなく、遊郭が用意した芸者に対してもチップを別に支払う必要がありました。

 

現代とはまた違った仕組みであったことが分かります。現在の吉原の営業時間については、24:00が最終となり、一斉にネオンが消える街となっています。

 

吉原のしきたり

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江戸時代の吉原遊郭は、遊びも真剣に行われていました。

時代は身分階級に分かれており、それぞれの階級い応じた見世で遊ぶことになります。

 

ルールを守らない者は、吉原から追い出されてしまい、今後吉原に立ち入ることさえできなくなるといったような厳しい制裁もありました

 

特に、花魁と馴染みになるとなれば、多くのルールがあることで、ご祝儀も数十万が当たり前だという時代だったのです。吉原でお目当ての花魁の馴染みの仲となる為には、上客となる必要がありました。

 

それに、花魁と馴染みになるには最低3回通い、お金を落とさなければならなかったという言い伝えは何とも日本古来有名な伝えとなっています。

 

しかし、このような上客になれる者は限られており、大名や武士、歌舞伎役者といった富裕層だけであったと言われています。

 

3度目にして・・・

吉原で遊ぶ際のルールは、最高ランクの花魁を指名するために、「初会」「裏」「馴染み」という3つの段階を踏まなければなりません。

 

「初会」はお見合いのようなもの。「裏」は花魁に2度目に会えること。「馴染み」は、花魁と一夜を共にできる男女の関係となれること。

 

それでも花魁は客を名前で呼ぶことはありません。身体を張った仕事をこなしているのです。

 

花魁の役割は?

花魁とようやく「馴染み」になる際は、ご祝儀の他にも花魁に対し「床花」という名目でのご祝儀を別に準備しておく必要があったのです。

 

馴染みになれることとなった場合は、花魁の自室に通され、そして客専用に箸や箸箱が与えられるなど、今までの待遇とは一風変わるのです。ここでやっと花魁と会話を楽しむことができ、そして床を共にしたというのです。

 

馴染みとなれるのは、その花魁とかりそめの「夫婦」とみなされ、次回より出迎えや見送りについても、今までとは想像もできないほど手厚い待遇を受けることができるようになるのです。

 

それでも、数十万とも言われている高いご祝儀を支払ったにも関わらず、花魁にフラれてしまうこともあったそうです。このようなことから、江戸時代の吉原出の花魁は、常に高嶺の花として存在していたことが分かります。

 

何とも一晩13万円以上も!?吉原での花魁の値段と格

吉原での遊女は最高ランクの「花魁」と呼び、一方、下級遊女を新造と呼び、花魁とは程遠い存在でした。

 

遊女の中でも最高位はさらに太夫と呼ばれる存在がいましたが、時代とともに花魁が最高ランクに君臨するようになりました

 

このような華やかな花魁を相手にできるのは、貧乏人にとっては無縁な世界でした。

 

まとめ

いかがでしたか?江戸時代に栄えた吉原での花魁の仕事内容について解説しました。花魁は遊女であり、身体勝負な商売をしていた女性であることが分かりました。

1日にお客を相手にし、寝る暇や自由もあまりない中で、品格ある花魁として、花魁に認められた男性だけが馴染みとなれるという、何ともその時代には厳しいルールの中で生きてきたんですね。

それでも、一晩に13万円!?という床を共にするにも高額すぎる費用を払えるクラスの方は、とても高い身分の方ばかりだったのでしょう。

 

花魁は限られた人にしかなれない最高ランクの遊女である為、その身分に至るには相当の苦労もあったことでしょう。花魁の仕事は寝る暇もなく毎日大変だったことがうかがえます。

 

現在の吉原は「東京都台東区千束四丁目」という場所にあり、今もなお、江戸時代の吉原遊郭の名残がうっすらと残り、ソープランドなどがちらほらとみられる場所としてありますよ。

 

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