- 合戦に赴く武士 体力の源は食にあり
- 時代の流れとともに食べ物にも変化が
- 1日3食の食生活が始まったのは?
今や和食は人気の食文化として世界に広がり、健康食としても欧米でも好まれています。
和食は見た目の美しさだけではなく栄養やカロリーのバランスが良くなっています。
世界的に有名なアーティストやスポーツ選手をはじめセレブたちにも愛され人気が高い食事として近年そのブームは高まる一方です。

武士は一体どんな食事を取っていたのでしょうか?
和食の今と昔、武士や庶民がどのような食事をしていたのか、現在の様に食材があまりなかった平安時代や戦国時代にどのような食事をしていたのかをまとめてみました。
武士の食事とは?
武士の食事は基本的に玄米、味噌汁、副菜というのがスタンダードだったようです。玄米とは精米していないお米のことで、副菜とは魚や小鳥、野菜、漬物、梅干しなどが主です。
合戦や戦場に赴く武士はやはり体力勝負とあって塩辛い味付けを好んだといわれます。味噌の原型は奈良時代から存在しましたが、戦国時代に味噌が広く普及することにより味噌汁が武士にも好まれました。
味噌はお湯を加えれば味噌汁になりますが急な戦や時間が無いときはそのまま味噌をかじって玄米と一緒に食したようです。武士にも階級があり、殿さまをトップとして大将、頭(かしら)、戦奉行等の「上級武士」がこれらの食事をしていました。
一方で普段農民である足軽や小物頭などは「下級武士」でこれらの武士は「上級武士」のような食事がほとんど摂れず毎食雑炊のようなものを食していました。「下級武士」にとって玄米、味噌汁、副食といったバリエーションはまさにご馳走だったと言えるでしょう。
戦場だけは特別に白米が支給されたそうです。決して負けることができない戦いの場では武将や殿さまは大盤振る舞いをして武士の食を満たし鼓舞したそうです。
「下級武士」の中にはこの時とばかり家族まで連れてきて普段食べることができないご馳走にありついたそうです。

気になる食生活 一日何食?
食事の頻度は?
戦ともなると話は別ですが平安時代も戦国時代も食事は1日2食が基本だったといわれています。のちの江戸時代になりやがて1日2食から一日3食になったそうです。
その理由として、江戸の幕府が全国から大工や職人など優秀な人材を全国から集め城中、城外や街づくりの仕事をさせたため朝と夕の2食では体力的にももたなくなり徐々に3食にかわりました。この習慣が一般庶民にも広がり現在に至るようになりました。
これまで1日2食だった食習慣でしたが江戸時代になり1日3食の食習慣が確立しました。しかしながら食材はまだまだ乏しく、決して庶民の食を満足させるような副食にはありつけなかったようです。

華やかで優雅な平安時代 貴族が食べていたものは?
平安時代とは?平安時代の食べ物は?
平安時代とは794年から1180年半ばまで続いた時代です。時代といえば華やかで優雅な貴族社会を想像するかたが多いのではないでしょうか。
絵巻物や書物を見る限り貴族を華やかに描いているものが多く、一般庶民の生活について記述されている文献はあまり見当たりません。
この時代は確かに上流階級の人々は大きな家屋に住み華やかで優雅な生活をしていたとされていますが、律令制が本格的に取り入れられたこの時代庶民の生活は租税に追われ困窮していたと思われます。
平安時代になると一部の皇族や貴族の食卓にはお肉や魚、野菜や海産物が並ぶようになりました。平安貴族が好んだ食べ物の多くは消化の悪いうえ栄養の偏った食事だったそうです。
また、家屋の中が中心の生活で運動不足であり不健康な生活から様々な病気が多く貴族の平均寿命は男性50歳、女性40でした。
面白いことに、源平合戦では貴族風の食生活をしていた平氏たちは栄養バランスのとれた武士の食生活であった源氏に体力的についていけなかったといわれます。
白米を主食にする平氏に比べ源氏の主食は玄米であり、おかずの多い平氏に比べ源氏は少なく質素でありましたが栄養面では合理的で健康的な食事内容であったとのことです。
一方下級武士や庶民の食生活はどうだったかというというまでもなく質素なものでした。
この時代の下級武士や庶民は白米と玄米を混ぜたものが主食で汁物は味噌汁、副食として焼き魚や煮物と梅干しや漬物などの惣菜だけでみすぼらしいものでした。
ちろんこのころはまだ1日に2食しか食べない時代であったので今と比べて栄養バランスも悪くカロリーも充分摂れなかったそうです。

戦いに明け暮れた戦国時代 食が戦を左右した
戦国時代とは?戦国時代の食べ物は?
戦国時代は一般的に応仁の乱があった1467年から豊臣家が滅びた1615年までといわれています。戦国時代とは簡単にいえば、多くの権力者が日本各地にさまざまな国を作りいろんな戦が繰り広げられた時代です。
戦国時代初期は小さな勢力の小競り合いのような戦いが多かったためあまり取り上げられません。むしろ庶民が貧しさと過酷な租税に耐えかねて全国各地で一揆を起こしたといわれています。
それを利用する権力者、それを抑えようとする権力者が台頭し自らの勢力を拡大してゆくのですが幕府にそのような動きを止める力はなく戦国の時代が始まります。
戦国時代はまだ1日2食が基本であったとされています。戦国時代の武士たちはお城でのんびり食事を摂れるのが少なかったようです。また合戦となると何日もお城に戻ることができませんでした。
織田信長の食事に関しては、ご飯にお湯をかけた湯漬けに味噌汁、しいたけや大根の味噌漬けまた味噌味の焼き鳥などとされています。
全体的に塩分が高い味付けであったようですが戦が多かったこの時代は運動量が多いのでこのような塩味の濃い味付けを好みました。
豊臣秀吉の主食は豆味噌おにぎりや豆味噌をかけた麦飯、おかずにはタコやイカを好んで食べたそうです。
豆味噌にはビタミンB1が含まれており、タコやイカにはタウリンが含まれているので秀吉の緻密な戦略と体力・精神力の源はまさに食にあったのでしょう。
一方、庶民は戦場に行けばごちそうが食べられるということで好んで戦場に赴いたそうです。
戦場では力をつけるため貴重なお米や鶏肉など貴重な食材が振る舞われましたので農民はその食事目当てに参戦しました。
しいざ戦いが始まると食事どころではなかったので戦いの前に済ませたそうです。長期戦の戦には定番の兵糧丸(兵糧がん)と芋がら縄が重宝されたそうです。
兵糧丸のつくり方は米、白玉粉、そば粉、すりごま等を酒で練り丸め天日干しにしたもので、戦いにはこれを鎧に巻き付け携帯して食していました。
芋がら縄は里芋の茎を縄状によって味噌とお酒で煮込んだ後乾燥させたもので、お湯に入れて汁物の具にしたりそのままかじったりして食べていました。
戦国時代は名の通り、戦いの絶えない時代であって武将であれ武士であれゆっくり食事をする時間があまりなかったのではないでしょうか。
最後に
いかがでしたでしょうか。今回は武士の食事を完全再現!平安時代と戦国時代では食べ物が全然違う?についてまとめました。
現在私たちの主食であるお米や味噌汁などは平安時代にはすでに食卓にあったとされています。
ただ、食材や調味料などが乏しい時代であったので現在と味も異なりおかずのバリエーションも限られたのではないでしょうか。
兵糧丸や芋がら縄といった携帯食がすでに戦国時代にあったなんて驚きですね。
武士・侍・サムライに関する記事
- 流浪の武士となる経緯や浪人との違いとは?
- 武士は食わねど高楊枝の意味・使い方
- 武士道精神の意味とは?
- 武士の食事を完全再現!平安時代と戦国時代
- 武士語に変換・翻訳が面白い!
- 武士の情け・意味と使い方を例文で
- 侍の名前でかっこいいランキング7選