• アインシュタインとはどんな人?生き方と逸話がすごい!
  • アインシュタインが天才の中の天才と呼ばれた理由!
  • 心に響く!アインシュタインの名言20選!

舌を出したチャーミングな写真が印象的な、アインシュタインは天才といわれており現代物理学に多大な影響を与えた人物としても知られています。

しかし、名前は有名ですが具体的な功績やアインシュタインの人柄を知る人は、意外にも少ないのではないでしょうか。

そこで今回はアインシュタインがどのような人物だったのか、またアインシュタインにまつわるエピソードや名言逸話などをご紹介していきたいと思います。

アインシュタインとはどんな人?生き方と逸話がすごい!

https://youtu.be/IfZJWsBbAgM

まず初めに、アインシュタインとはどんな人物でどんな生活を送っていたのでしょうか。

 

実はアインシュタインには、幼い時から数々の逸話があるのです。

 

アインシュタインとは

アインシュタインは、1879年3月14日にドイツで生まれました。

 

しかし、ドイツの兵役義務から逃れるために市民権を放棄し、その後にスイス国籍を取得しています。

 

そんなアインシュタインの本名は、『アルベルト・アインシュタイン』です。

 

アインシュタインは、5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられています。

 

一方、その頃父にもらった方位磁針に興味を持ち自然界の仕組みについて考えるようになったそうです。

 

キャラ

生まれながらの天才気質ですね。

 

さらに、6歳頃にはヴァイオリンを習い生涯ヴァイオリンを愛したとされています。

 

アインシュタインは言語障害だった?

一方で、アインシュタインには言語障害があり、大人になってからも子どものようにスペルを間違えることもしばしばあったといわれています。

 

だからこそ、Rというアルファベットを生涯反対にしか書くことができなかったとされています。

 

物理学者としての素質

また、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り寝る間も惜しんで考え、自力で定理を証明したといわれています。

 

ピタゴラスの定理とは

直角三角形の斜辺の長さをc、他の2辺の長さをa、bとすると、a2+b2=c2であるという定理。
別名三平方の定理とも言う。

さらに、12歳のときには微分学や積分学を独学で習得し、点や線に定義を与える『ユークリッド幾何学』を理解していたといわれているから驚きです。

 

16歳のアインシュタイン

1895年、アインシュタインが16才になるとスイスの名門であるチューリッヒ連邦工科大学を受験するのですが総合点数が足らず落ちてしまいます。

 

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意外ですね!

 

しかし、アインシュタインの数学や物理の点数は最高ランクだったこともあり、大学入学に必要な中等教育を受ける事を条件に、翌年度の入学資格を与えてもらいます。

集団行動が苦手だった学生生活

しかし、大学でも授業の内容によっては自分にとって無意味だと考え、授業には出ず喫茶店で本を読んで一人で最先端の理論を勉強したりしています。

 

その為、出席率は非常に悪く指導陣からの受けは良くありませんでした。

 

その結果、アインシュタインはチューリッヒ卒業しますが教授達のウケが悪く助手になれず大学に残れなかったのです。

相対性理論誕生のきっかけ

『あらゆるものは、光より早く動くことはできない』

 

この言葉はアインシュタインの有名な相対性理論です。

 

このひらめきは、アインシュタインは学校の昼休みに丘で寝転び空を眺めていたそうです。

 

そのうち、いつの間にかうたた寝をしてしまい不思議な夢を見ます。

 

その夢は、自分が光の速さで光を追いかける夢だったそうで、目が覚めるとすぐに思考実験を試したといわれています。

 

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行動力がすごいです!

 

これが、後に相対性理論を生み出す切っ掛けになったといわれているんですね。

 

アインシュタインの恋

また、アインシュタインは教師の家に住んでいましたが、その教師の娘である一つ年上のマリーに恋をします。

 

しかしその恋は遠距離となり実らず、その後同じ大学にかようミレーバと出会います。

 

最初は友達だった二人ですが、物理の文献を一緒に読み仲を深め、1903年に結婚し、翌年には1長男ハンスを授かります。

 

ノーベル賞受賞直後の離婚

しかし、アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞した後にミレーバと離婚しています。

 

なぜなら、アインシュタインは受賞の確信があり、離婚を渋るミレーバに対し離婚を承諾してくれたらノーベル賞を受賞した賞金を全額ミレーバに譲ることを提案していたのです。

 

しかし、アインシュタインはなぜそこまで離婚したかったのでしょうか。

再婚の相手はいとこ

実は、アインシュタインは離婚の4か月後にいとこのエルザ・レーベンタールと再婚しています。

 

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いとことは驚きです!

 

この頃、アインシュタインは肝臓病を患っていましたが、徴兵を逃れたアインシュタインは自宅療養をせざるを得ず、そんな時にいとこのエルザが看護をし親密になっていったといわれています。

 

元々、アインシュタインは浮気性だったようですが、エルザとは離婚せずに添い遂げたようです。

 

定職のない不安定な2年間

その後、アインシュタインは求職活動を2年も行う不安定な時期を過ごしています。

 

しかし転機が訪れたのは1902年、スイス特許局への就職が決まりました。

 

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いわゆる公務員です。

 

業務内容は、発明品などに関する特許出願に関する提出された書類を読み受理するかどうかを決めるというものです。

 

もちろんこれは、物理学者の夢には程遠い仕事でしたが、時間に余裕もあり研究に費やす時間が作れたことはアインシュタインにとって良い生活リズムでした。

 

アインシュタインが天才の中の天才と呼ばれた理由!

https://youtu.be/rEb-tslZX6g

では、そんなアインシュタインが”20世紀最大の物理学者”と呼ばれた理由はどこにあるのでしょうか。

 

3つの論文

1905年、アインシュタインが26歳の時に3つの論文を発表します。

 

  • 光量子仮説
  • ブラウン運動の理論
  • 特殊相対性理論

このような論文が注目され始め、アインシュタインの存在は徐々に知られるようになります。

 

念願叶った大学の講師に

それから3年後の1908年、ようやくベルン大学の講師というポストにありつくことができます。

 

その際、給料が少なかったことから公務員と大学講師という二足のわらじを履きこなしていました。

 

しかし、1909年にはチューリッヒ大学の理論物理学の助教授になり、夢がかなったとこほで一本にしぼります。

 

物理学者としての順調な時期

念願の物理学者に転身してからの人生は、順風満帆といえるアインシュタインでした。

 

  • 1911年チェコ カレル・フェルディナンド大学
  • 1912年 スイス連邦工科大学
  • 1914年 ベルリン大学

 

これらの名門大学の教授を務めています。

 

ノーベル賞受賞

さらに1921年には、波として知られていた光が粒子的な性質も同時に持っていることを示した論文によりノーベル物理学賞を受賞します。

 

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求職時代から約20年後の快挙です。

レーザーの生みの親はアインシュタイン

また現在、医療や通信などで当たり前のように使用されるレーザーの生みの親はアインシュタインだとご存知でしょうか。

 

アインシュタインは、電子が外部からの電磁波によって放出される現象である誘導放出の研究を行い、それが現在のレーザー開発の基盤となっているのです。

 

原子爆弾とアインシュタイン

さらに、原子爆弾をアメリカに造るように提言したのはアインシュタインだといわれています。

 

その理由は、当時核開発を進めるドイツへの抑止力のための提案にすぎず戦争目的で提言した訳ではありませんでした。

 

また、アインシュタインは大統領宛に核開発を薦める手紙にサインした1人であるというだけです。

 

しかし、結果的に原子爆弾は日本に投下されましたね。

 

そのことを受け、アインシュタインは「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまいました。こんな私をどうか許してください。」と号泣したそうです。

 

舌を出した写真の意外な理由

また、アインシュタインといえば舌を出した写真が有名ですよね。

 

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ユニークなイメージです。

 

しかし、実際はマスコミに腹を立て舌を出したものだったのです。

 

一方、逆にアインシュタインはこの写真を気に入っていたといわれています。

 

アインシュタインの年収

1933年、54歳のアインシュタインはプリンストン高等研究所に招かれ、その教授に就任する際に希望年俸を聞かれます。

 

ちなみに、公務員の頃の年収はおよそ1000万円です。

 

アインシュタインは 、「3,000ドルほどでしょうか」(約3,000万円 )と答えたそうです。

 

しかし、アインシュタインはドイツの迫害を受け財産を没収されている時期だったので、もっと高額を希望してもおかしくなかったのですが、アインシュタインはお金にそこまでの興味がなかったんですね。

 

もちろん、その後の話し合いで1万5000ドル(約1億5000万円 )を支払うことを約束されています。

 

アインシュタインは、その後にもっと良い条件でスカウトされても応じなかったそうで、どんな時も謙虚さを大事にするアインシュタインを感じるエピソードです。

 

亡くなってからも14億の収益

しかし、アインシュタインがすごいのは亡くなった後、肖像権使用料だけで2015年に年間1,150万ドル(約14億円)ほどの収益を上げていることです。

 

没後もアインシュタインの名声、その研究の価値はますます高まっていることを感じさせますね。

 

アインシュタインの手紙がオークションに?

また、最近ではアインシュタインが1921年にイタリア人女性科学者へ向けて書いた短い手紙が、エルサレムのオークションに出品され6100ドル(約64万円)で落札されたことが話題になりました。

 

手紙の相手は、アインシュタインの妹マヤが住む部屋の1階上に住んでいた、化学専攻生だったエリザベッタ・ピッチーニさん宛です。

 

『科学者様、あなたの足元で丸2日、眠ったり座ったりしました。友情の記念品です』

 

この頃、アインシュタインはかなり有名でした。

 

さらに、「相対性理論の第三段階」の着想を書き留めた1928年の草稿は10万3000ドル(約1080万円)で落札されたと言われています。

 

アインシュタインの脳の行方

また、アインシュタインは自分の遺体について具体的な指示を残して亡くなっています。

 

遺体は火葬し、遺灰はひそかに散骨して偶像崇拝されることのないようにしてほしい

 

しかし、アインシュタインの遺体の検視を行なった病理学者は、遺族の了承なしにその脳を持ち帰り研究するために240ブロックに切り分けたといわれています。

 

だからこそ、アインシュタインの脳は現在も、プリンストン大学病院に保存されています。

 

亡くなっても尚、人々の気温はアインシュタインに夢中なのです。

 

親日家で天ぷら好き

またアインシュタインは1922年、日本でいう大正11年に訪日しています。

 

神戸から門司まで43日間日本にいたとされています。

 

その際、アインシュタインは黒羅沙の背広姿を茶褐色の霜降りコートに包んで、悠然とパイプをくゆらしていたそうです。

 

また、アインシュタインは天ぷらが大好きで昆布の佃煮も好物であったといわれています。

 

心に響く!アインシュタインの名言20選!

また、天才と呼ばれたアインシュタインは様々な名言を残しています。

 

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ご紹介していきましょう!

 

人生観を見直す名言

まずは、アインシュタインの生き様を感じさせる名言です。

 

“一見して人生には何の意味もない。
しかし一つの意味もないということはあり得ない。”
“自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。”

 

“愚者と天才の違いといえば、天才には限度があるということだ。”
“人の価値とはその人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。”

 

“人生には、二つの道しかない。
一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。
もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。”

 

“この世は危険なところだ。
悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら何もしない人がいるためだ。”

 

“常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。”

恋にまつわる名言

恋多き、アインシュタインならではの名言です。

 

“異性に心を奪われることは、大きな喜びであり必要不可欠なことです。
しかし、それが人生の中心事になってはいけません。
もしそうなったら、人は道を見失ってしまうでしょう。”

 

“男は結婚するとき、女が変わらないことを望む。
女は結婚するとき、男が変わることを望む。
お互いに失望することは不可避だ。”

 

努力の大切さを感じる名言

アインシュタインは、生まれながらにしてアインシュタインではなかった事が伺えます。

 

“挫折を経験した事がない者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。”

 

“私には特別な才能などありません。
ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。”

 

“過去から学び今日のために生き、未来に対して希望をもつ。
大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。”

 

“人生とは自転車のようなものだ。
倒れないようにするには走らなければならない。”

謙虚さの大切さを感じる名言

どんなに偉くなっても、謙虚さを持っている人は違いますね。

 

“自分自身のことについて誠実でない人間は、他人から重んじられる資格はない。”

 

“私は、それほど賢くはありません。
ただ、人より長く一つのことと付き合ってきただけなのです。”

 

“教えるということは、こちらが差し出したものがつらい義務ではなく、貴重な贈り物だと
感じられるようなことであるべきです。”

 

“学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。
自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる。”

 

“6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない。”

 

心が楽になる名言

まるで、忙しく日々を過ごす私たちへのメッセージのような名言です。

 

“どうして自分を責めるんですか?
他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。”

 

“私は、先のことなど考えたことがありません。
すぐに来てしまうのですから。”

 

生涯を終える際も名言を

アインシュタインは、1955年腹部大動脈瘤が破裂し搬送されます。

 

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当時76歳です。

 

しかし、一切の治療を拒んでこう言ったといわれています。

 

「人為的に命を長引かせるのは無粋なことだ」

 

つまり、与えられた分は生きたからこそ、そろそろ行くころだと感じたのでしょう。

 

キャラ

最後まで素敵ですね。

 

そうして、偉大な功績を残したアインシュタインは眠りながら息を引き取ったのです。

さいごに

 

いかがでしたか。多くの功績を残し、評価されながらも謙虚でストイックなアインシュタインは、とても魅力的な人物であることがわかりますね。

だからこそ、数々の名言を残せるのでしょうか。

 

アインシュタインの生き方のように、好きなことや興味のあることに没頭できるようなキャリアを選択する事は容易ではありません。

 

しかし、諦めない姿勢を持つことは今すぐできることではないでしょうか。