• トマトの歴史と日本!
  • ヨーロッパでの品種改良で毒が失われた?

イタリヤ料理などでは欠かせないトマトは日本人も好きな人が多く、好きな野菜ランキングでも一位となっており、日本人一人当たりの野菜購入金額でもトップになっています。

また美味しいだけでなく、アンチエイジング効果があるといわれるピコリンという成分を多く含んでいるので美容にもよく、ガンの発症を抑える効果もあります。

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そんなトマトは太古の昔から今の味や姿ではなく、改良されてきた歴史があります。

特に日本の食卓に定着したのは昭和になってからです。

 

このコラムではトマトの起源、世界への広まり、今日に日本の食材として定着するまでの歴史について紹介したいと思います。

トマトの起源とヨーロッパへの普及

トマトの起源は16世紀以前の南アメリカのアンデス山脈でメキシコのアステカ族が育てていたものと考えられています。

それが1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスによってヨーロッパに伝わりました。

有毒植物・ペラドンナに似ていた

しかしながら当時のトマトはぺラドンナという有毒植物に外観が酷似していました。ペラドンナは暗殺用の毒薬や弓矢に塗って毒矢を作るのに使用されていました。

 

また当時の貴族が使っていたピューター(錫合金)食器の錫がトマトの酸性によって溶け出したために多くの人が鉛中毒になっていたことから毒だと考えられていました。

 

観葉植物から食用へ

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その誤解が解けたのちも食用としては認められず、観賞用として扱われていました。

しかしながら、当時のイタリヤの貧困層の中には貧困状態から脱するために毒があっても構わないので食べてみようと思う者たちが現れました

 

それは王宮や貴族の庭園で雇われていた庭師たちでした。彼らは庭園の手入れの傍ら、密かにトマトの種子を持ち帰り、自宅の庭で育てたり、知人の農家に配ったりしました。

 

当時のトマトは固くて、酸味が強かったのですが、それを彼らは改良して酸味の弱く、食べやすいものに改良していきました

 

そして200年もの期間を経て18世紀になってやっと現在のトマトに近い形になってヨーロッパに広まり食用とて普及していきました。

 

パスタのトマトソースとして一気に広まる

特に18世紀のイタリヤではそれまでパスタソースには羊のおろしチーズや黒コショウが使われていましたが、トマトソースがそれに代わるものと認められるようになり世界中に広まっていくことになりました。

 

イタリヤでは黄色い果実をつけるトマトを「黄金の果実(ぽもドーロ)」、フランスでは「愛の果実」、イギリスやドイツでは「愛のリンゴ」という愛称で呼ばれるようになりました。

 

トマトは野菜の中でも料理に使いやすいものとして認知されていったようです。ちなみにイタリヤではトマトはいまでもポモドーロと呼ばれています。

 

アメリカでのトマトの普及

アメリカでもトマトは観賞用だった

ヨーロッパで食用として認められたトマトは、アメリカに移住した人々によってアメリカ大陸に戻ることになりました。

しかしヨーロッパと同じく最初は観賞用でした。それはやはりヨーロッパと同様に毒だと考えられていたからです。

しかし1520年にニュージャージーの農場主であったロバート ジョンソン大佐は自分の畑で育てたトマトが無毒であることを証明するため、町の裁判所に人を集めて、人前で食べて見せて無毒であることを証明してみせたそうです。

 

その後さらにブキャナン大統領の晩餐会のメニューにトマトが正式に加わったことでアメリカ全土でトマトが市民権を得て、アメリカでも食用として認知されるようになりました。

 

トマトは野菜か果物かの判断で裁判に

https://www.youtube.com/watch?v=VvVb8DZzYwg

余談になりますが、当時のアメリカでは果物の輸入には関税がかからず、野菜には関税がかかっていました。

 

トマト輸入業者はトマトを輸入したいために「果物」であると主張したのですが農務省の役人は「野菜」だと主張したために裁判になりましたが、結局決着がつかず、米国最高裁判所の判決を仰ぐ事態になりました。その結果、結局野菜とされたそうです。

 

判決文には「トマトはキュウリやカボチャと同じように野菜畑で育てられている野菜である。また、食事中に出されるが、デザートにはならない」と書かれています。トマトにクリームと砂糖をかけて食べる記載も裁判記録の1つとして残っています。

 

日本でのトマトの普及

日本にトマトが伝わったのは3回あり、一度目は江戸時代、二度目は明治時代、そして三度目は昭和時代です。

一度目は江戸時代の長崎にポルトガル人によるものとされています。

唐柿という観葉植物だった

1668年に当時の四代将軍徳川家綱のお抱えの絵師狩野探幽によって「唐なすび」という絵が書かれたものが日本最古のトマトを示す記録として残っています。

 

しかしながら当時は観賞用として扱われ「唐柿」と呼ばれていました。独特のにおいや色が当時の日本人には敬遠されてしまったからです。

 

明治時代から野菜として輸入・栽培され始める

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二度目は明治時代ですが、アメリカから野菜として再輸入されて栽培されるようになりました。

しかしながらそれらはジェネラルブランド、トロピイ、レッドペアーシエィプドなどのアメリカの品種の赤い果実で、酸味、香りが大変強く、日本人に受け入れられず、外国人向けのみに栽培されました

 

昭和時代から食用として広まる

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日本人に食用として認められるようになるのは三度目の昭和時代になります。

第二次世界大戦が終わるとアメリカによる日本支配の影響で日本の欧米化、そして食も洋風化の動きが進みました。この時にキャベツやたまねぎ、アスパラガス、にんじんといった西洋野菜と一緒にトマトも輸入されてきました。

 

この時にアメリカから入ってきたトマトはポンテローザといわれる品種でしたが、これは桃色系で果実が大きく、果肉が柔らかく、香りも穏やかで酸味も抑えられていたため、日本人の嗜好にも合うものになっていました

 

食の欧米化でトマトの消費量が急増

食の洋風化により、日本人が肉類を多く食べるようになり、肉料理に添えて食べるための「サラダ」が普及するようになり、生で食べる生食用のトマトがサラダ野菜として他の西洋野菜と同時に普及されるようになりました。

 

一方で、サラダ以外にもトンカツやオムライス、チャーハンにはトマト加工品のソースやケチャップなどが多く使われたため、これもトマトの消費量を増加させる要因となりました

 

カゴメ創業者による品種改良

カゴメの創業者である蟹江一太郎は農家の跡取りでしたが、戦争が終わって兵役から解放されて日本に戻ると、トマトなどの西洋野菜に目をつけ、自宅の脇で西洋野菜の栽培をはじめました。これがカゴメの誕生のきっかけになったそうです。

 

このカゴメの創業者蟹江一太郎によって加工トマトの製品化も実現しました。高温多湿な日本の気候にあうように、病気への耐性、収穫時に果実が一斉に熟しても腐りにくいようにする耐腐食性のための改良。

 

また加工用にグルタミン酸、ビタミンC、クエン酸などを多量に含む栄養価の高い性質をもたせるための改良などが行われました。

 

桃太郎という品種が人気となる

東京オリンピック開催後の高度経済成長により、都市近郊の農地は宅地として使われるようになり、トマトの産地は次第に都市から地方へと移っていきました。

 

しかしながら当時のトマトは完熟してから収穫すると傷みやすかったため、緑色の状態で出荷されていたそうです。このため、青臭いというイメージがトマトにはついていました

 

そこで完熟してからもすぐには傷まず、サラダにも合う「桃太郎」という品種がタキイ種苗株式会社にて育成されました。桃太郎は完熟しても傷みにくい上に糖度も6以上と甘く、昭和初期のトマトの代表格として認められるようになりました。

 

ミニトマトも子供の弁当箱に入れるサイズとしてちょうど良いということで人気が出て定着していきました。また、健康志向のブームによってトマトジュースも普及するようになりました。

 

このような歴史を経てトマトは日本人の好きな野菜1位にまで上り詰めていったんですね。

 

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