- アイヌの芸能人まとめ!
- アイヌ出身・末裔からアイヌ文化についても
日本は、周囲を海に囲まれた島国で、鎖国などの歴史があるせいか、単一民族と思われがちです。
ところが、主に北海道の一部地域にアイヌ民族、沖縄地方には琉球民族がいます。
さて、芸能人でアイヌ出身者は、どれほどいるのでしょうか。
一般的に、あまり知られていないアイヌ民族の文化や生活の様子などについてまとめてみました。
アイヌの芸能人まとめ!
みなさんは、アイヌについてどのくらいご存知でしょうか。
もともとは北海道の一部や樺太、千島列島などの地域を中心に居住していた民族でした。
現在は、北海道を中心に、東北や首都圏などのいろいろな地域に居住している人も多くいるようです。
しかし、純血のアイヌの人は少なく、アイヌの出身や末裔であることについても、あまり公表していないようです。
もしかしたら芸能人の中にも多くの人たちがいるかもしれません。
純血ではないですが、芸能界などで活躍中でアイヌの血を引く一部の著名人たちをご紹介しましょう。
宇梶剛士
1962年東京都新宿区に生まれました。
アイヌの詩人・古布絵作家である宇梶静江さんが母親でアイヌ人です。
宇梶さんは、自身の著書で公表しています。
高校生の頃は、いわゆるヤンチャだったこともありましたが、現在はいろいろな経験を糧に俳優として大活躍中です。
背が高く、はっきりした顔立ちがとても男らしく、柔らかい笑顔もステキです。
特に若い頃の宇梶さんは、スリムでかなりのイケメンでした。
宇梶静江
1933年北海道浦河町に生まれました。
詩人、古布絵作家、絵本作家として活躍するかたわら、アイヌ文化を継承し、アイヌ解放運動家でもあります。
アイヌ文化を継承し、東京アイヌウタリ協会の会長に就任し、その後、吉川英治文化賞を受賞しています。
この方が宇梶剛士さんの母親です。
浦川治造
1938年北海道浦河町に生まれました。
アイヌのエカシ(長老)で、アイヌ文化奨励賞を受賞、東京アイヌ協会名誉会長を務めています。
自身の半生を描いたドキュメンタリー映画「カムイと生きる」に出演しています。
壮大な北海道の自然の中、アイヌの生活の様子や自然への祈りなどを紹介しています。
この映画のナレーションを務めたのが、甥の宇梶剛士さんです。
OKI
1957年北海道の生まれで、ミュージシャン、音楽プロデューサーとして活躍しています。
カラフトアイヌの伝統弦楽器であるトンコリの奏者でもあります。
トンコリは、樺太アイヌが使っていた五弦琴のことで、細長く平たい楽器です。
アイヌの伝統音楽を基調として、レゲエやロック、ダブ、アフロ・ビートなど世界の音楽を取り入れた音楽を生みだしています。
彫刻家の砂澤ビッキさんと画家の山田美年子さんとの間に生まれました。
安東ウメ子
1932年北海道帯広市に生まれました。
アイヌの音楽家で、ムックリと言われる口琴と、ウポポという歌の名手として知られていました。
OKIさんのプロデュースによりCDアルバムを出し、アイヌ語の講師やアイヌ文化の保存活動も行っていました。
残念ながら、2004年に亡くなっています。以上、公表されている方々の中からピックアップしてみました。
他にも、純血ではないかもしれませんが、もしかしたらアイヌ系かもしれないという人たちもたくさんいます。
アイヌの人たちの顔立ちの特徴として、眉のところの骨が高くなっていて、目鼻立ちがはっきりしているなどの特徴があります。
芸能界で、このような顔立ちで北海道生まれならば、アイヌの遺伝子を受け継いでいる可能性があるかもしれません。
一般の人と比べて、人目をひくような美男美女が多い芸能界。
その中に彫りの深いキレイな顔立ちのアイヌの人たちがいても不思議はないですよね。
アイヌ出身・末裔からアイヌ文化についても
現在、純血であるアイヌの人たちは、年々少なくなっているようです。
また、実際アイヌの人であっても公表している方々が少ないせいもあって、正確な人口はわかっていません。
2013年に北海道内で調査に応じた人で16,786人との統計結果が出ています。
ここからはアイヌについて、その歴史や文化や生活の様子など簡単にまとめてみました。
アイヌという言葉の意味
アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味です。
アイヌの社会の中では、特に行いの良い人だけに使われていました。
それに対して、丈夫な体を持っているのに働かない人などは、ウエンペ(悪いやつ)と呼ばれていました。
アイヌ語は、日本語とは違う独特な発音も多くあり、カタカナ表記などにも特徴があります。
アイヌでは、その歴史的理由から、アイヌ語のほか、日本語はもちろん、一部の地域では、ロシア語も話されています。
縄文人の末裔
アイヌの祖先は、北海道にもともと在住していた縄文人と考えられています。
北海道内でも居住地域によって、縄文人だけでなく、さまざまな違いがあるようです。
その頃、本土の民族である大和民族(和人)は、アイヌの人たちを蝦夷または土人と呼んでいました。
ちなみに1855年のロシア帝国との間に日露和親条約に基づき国境線がひかれ、大半は日本国民となりましたが、一部はロシア国民となりました。
また、時代の流れとともに、アイヌの人たちは大和民族である和人と交易するようになります。
寒さのために南下するようにもなり、混血することによって、どんどん遺伝子も変わってきました。
そのため、純血が少なくなってきているとも言えます。
アイヌの文化
アイヌ特有の文化は、北海道を中心とした擦文文化と、オホーツク文化、日本本土の文化との間に生まれたと考えられています。
それらアイヌの文化は文字を持っていなかったため、資料として残されることはなく、口承のみによって受け継がれてきました。
そのため、現在残っている古い記録に関しては、ヨーロッパ人や和人による記録です。
また、アイヌにもさまざまな方言があり、居住地域によって異なっていました。
現在の東北地方にも、アイヌ語のような地名が多くあるため、北海道から東北へ流れてきたアイヌの人たちもいると考えられています。
また、大きな単一国家を持たなかったため、共通の文化が無く、居住地域ごとに文化の違いも見られます。
アイヌ社会は格差社会?
近年、墓や住居跡などの発掘作業が進んだ結果、アイヌはコタンと呼ばれる5、6軒単位の集団で生活していることがわかりました。
その中で人々は4段階の階層に分かれ、最も上の「首長」となる人物のもとに富が集中していたと考えられています。
しかも、和人たちとの対立はもちろん、アイヌ同士でも戦いが繰り広げられていました。
特に、各首長によっても、それぞれのコタンの特徴が大きく違っていたようです。
文化や法律などの決まり事も、コタンごとに首長の性格に影響されるものが大きく、地域や部族ごとに違いがありました。
琉球民族に近い?
また、最近の遺伝子研究の結果、DNA的にアイヌと最も近いのは、本土の大和民族よりもさらに南の琉球民族であることがわかりました。
日本の北端と南端の遺伝子がより近くて、その間とは少し違うというのは不思議です。
そういえば、沖縄地方の人たちもはっきりした顔立ちの人が多いようです。
陋習(ろうしゅう)と言われた文化
それまで蝦夷地と呼ばれていた北海道は、明治に入ると急速に開拓が進みました。
屯田兵や農民たちが入り込み、アイヌの人たちも平民として同じように生活が始まります。
その一方で土人とも呼ばれ、独特の宗教儀礼や入れ墨、耳環などが陋習とみなされるようになりました。
陋習とは悪しき習慣という意味です。
この頃から日本語に接するようになったアイヌの人たちですが、もともとあった土地などを奪われ、生業であった狩猟や漁撈などが制限され、生活は困窮しました。
アイヌの人たちにとっては、なかなか厳しい時代だったようです。
アイヌの伝統的衣装
アイヌでは、自分たちがもともと作っていた衣装と、外来の布を使った衣装の二種類あります。
自分たちが作っていた衣装には、動物の皮を素材にしたものと、植物の皮を素材にしたものがありました。
動物の場合は、クマや鹿、狐の皮、鳥の羽毛の付いた皮、鮭や鱒などのなめし皮などが利用されていました。
植物の場合は、樹皮や草皮などが利用されていました。
例えばアミプと呼ばれる伝統的衣装がありますが、オヒョウやシナノキから採った繊維で織られています。
イラクサで織られたものは色が白く、キレイな仕上がりでレタラペと呼ばれています。
仕立ては和服に似ていますが、筒袖でおくみがなく、地方によっても模様が違います。
道南地方や噴火湾地方では、外来の布である木綿を使ったルウンペと言われる、長方形に裁断した綿布をアップリケにして刺繍を施しています。
また、日高地方では、白い曲線を描いたカパリアミプという模様が施されています。
全体的に色鮮やかで大胆な柄のものが多いようです。
これらは、日常着や仕事着としても着られていましたが、よりキレイに刺繍がほどこされたものは晴れ着として着用されていました。
特別な装身具
儀式の時は、男性の場合、ブドウヅルなどを編んで作られた冠をし、そこにクマの彫刻や鳥の頭蓋骨を装飾していました。
また、専用の刀帯を使い、さまざまな彫刻を施された刀の鞘に、儀礼用の刀を入れて身に付けます。
なお、普段の仕事の際は、手甲や脚絆をつけることが多くありました。
女性の場合は、鉢巻きをしめ、首飾りや耳飾りをして装飾します。
以前は、刺しゅう入りの鉢巻きは男性のものでしたが、現在は女性もしています。
首飾りは、交易によって中国や和人から入手したガラス玉で作られているものやチョーカータイプのものがあります。
青や黒のガラス玉が人気でした。
ニンカリと呼ばれる耳飾りは、金属製で輪の形をしたピアスで、男性も付けていました。
その他金属製の腕輪もつけていました。
いつの時代も、オシャレは欠かせないものですね。
独特な建物
アイヌの建物は、茅葺の掘立柱建物でチセと呼ばれているものです。
家の周囲には高床式倉庫であるプーと呼ばれる建物や、アシンルと呼ばれるトイレ、熊飼育用の檻などがありました。
だいたい数家族が寄り集まって、コタンと言う集落を作って暮らしていました。
現在この建物は、北海道平取町にある二風谷アイヌ文化博物館で再現され、見学することができます。
その博物館には、アイヌの人たちの生活用品などが展示され、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
なお、博物館の創設者は、アイヌ民族でありのちに国会議員となった萱野茂さんです。
自然とともにある宗教
アイヌでは、基本的に動物や植物、生活の道具にももちろん、さまざまな自然現象や疫病など森羅万象に魂が宿ると考えられています。
特に、熊は「神が肉と毛皮を持って人間界に降臨した姿である」とされていて、殺したあとにイオマンテという、神を天界に送り返すという儀式を行っています。
熊の肉と毛皮は、神からの土産物と考えられていて、感謝の気持ちがよくあらわされています。
その際、ヌサと呼ばれる祭壇に、ヒグマの頭骨を祀って行われます。
自然に対する深い感謝と畏敬の念が感じられます。
また、千島列島のアイヌの人たちの中では、ロシア正教会の神父によりキリスト教に改宗する人たちも多くいました。
古式舞踊
ウポポという歌に合わせて踊るリムセという踊りが伝えられています。
この踊りは、地域によって曲や踊り方が違いますが、主に祭事や祝宴などで演じられていました。
国の重要無形民俗文化財に指定されているほか、ユネスコの無形文化遺産にも登録されています。
他に、アイヌの儀礼用の刀を使った踊りもありました。
踊りや歌は、儀式や労働または娯楽としてなど、目的に応じてさまざまな種類がありました。
口承文芸
アイヌは、文字を使用しなかったため、その歴史や生活の知恵や工夫などは全て口承で伝えられてきました。
それと同じように、口承文芸として、いわゆる昔話や民話であるウエペケレや、叙事詩であるユーカラなどがあります。
英雄叙事詩や神謡は、独特のメロディーに載せて語られましたが、散文説話は日常会話のまま語られました。
明治時代に、知里幸恵というアイヌ人女性がアイヌ神謡集というアイヌに伝わる神話をまとめたものを出版しました。
この本は、北海道が急速に開発され、近代化していく中で、自然破壊を余儀なくされて行く様子や滅び行く民族や使用されていた言語などを語りつごうという切なる願いが込められています。
アイヌ語
アイヌ民族の言語であるアイヌ語は、孤立した言語で、「危機に瀕する言語」とも言われています。
さらにその中でも、「極めて深刻」とされる言語で、北海道アイヌ語、樺太アイヌ語、千島アイヌ語という大きく三つに分かれています。
また、東北北部の蝦夷では、エミシアイヌ語が話されていたという説もあります。
一つの国にまとまっていなかったため、このような方言が生まれたようです。
残念ながら樺太アイヌ語や千島アイヌ語はすでに消滅してしまいました。
なお、1980年代から萱野茂氏らの働きかけにより保存活動が始まり、アイヌ語教室なども開かれ、少しずつその活動の成果が現れています。
毎年、アイヌ文化振興財団主催で行われるアイヌ語弁論大会では、多くの人たちが参加し、口承文芸も披露されています。
北海道内の地名には、アイヌ語由来の日本語の地名が数多くありますが、東北の北部にもそれらしい地名が残っているところもあります。
ちなみに「札幌」や「苫小牧」もアイヌ語が起源となっているようです。
アイヌの生業
アイヌは狩猟、漁撈、山野草を採ったりしながら、ひえ、あわ、きびなどの農耕を中心に生活していました。
狩猟の道具としては、弓を使ったり、仕掛けや罠を作ったりしました。
魚を獲る際には、網を使ったり、突き銛を使用したりしていました。
主に女性の仕事だった山菜などの採取には、山菜に合わせたいろいろな道具が使用されています。
特に、和人社会からの影響が強くなってからは、じゃがいも、大根、ネギなどが盛んに栽培されるようになりました。
また、和人との交易により、さまざまなものを手に入れるようになり、交易に有効に利用するための必要なものを確保していました。
例えば、鮭は燻製にし、干物にするなど保存食としても作られていましたが、和人との交易のために、より大量に確保することが必要なものの一つでした。
動物の毛皮も、衣服の材料として交易に有効なものでした。
アイヌの食生活
当時の北海道には、たくさんの動物や植物に恵まれ、それらを上手に利用していました。
特に鹿は数も多く、先に鍋を火にかけて出かけられるほど、簡単に手に入れることができたようです。
それに対して、熊は山の神として崇められ、他の動物の肉とは別格として考えられました。
料理をする際の注意として、「他の肉と一緒に煮ない」「女性に調理させない」「煮る時に鍋に蓋をしない」などの約束事が厳しく守られていました。
海の生物としては、ニシンやイワシなどの魚はもちろん、イルカやアザラシなどの海獣やメカジキやサメなどの大型魚類も食べられていました。
狩猟や漁は男性の仕事でしたが、女性たちは山菜などの野草を採ったり、どんぐりなどの木の実を拾ったりしていました。
肉に関しては、新鮮な内臓以外は生で食べることはほとんどなく、汁物や煮たり焼いたりして食べていました。
魚に関しても、串に刺して焼いたり、汁物に入れたりして多く食べられていました。
多くの料理は加熱するもので、ゆでる、蒸す、煮る、焼く、あぶるなどの直火か、もしくは鍋一つでできる料理が主流でした。
いろいろな材料を入れたバランスの良い具沢山の汁物が多かったようです。
調味料は主に塩で、魚や動物の脂肪を利用し、次第に味噌を使うようになりました。塩や味噌は、和人との交易から得られるため、大変貴重なものでした。
香辛料としては、ギョウジャニンニクやキハダの実などを使用していました。
コンブや動物の骨、焼き干しから出汁をとることもあったようです。
食料品の備蓄も盛んに行われていて、動物の肉は煮てから乾燥させて燻製にしたり、魚は天日干しにして乾燥させ、燻製にしたり、焼き干しにしました。
山菜などは、そのまま貯蔵できるものもありましたが、一度ゆでて乾燥させ、粉にしてから団子を作って乾燥させて貯蔵していました。
お酒やたばこなどの嗜好品も自分たちで作って、楽しんでいました。
アイヌの工芸品
衣食住に関わる道具や衣装のほか、祭礼や儀礼などに使う祭具類も手作りしていました。
それらは自然のものを使い、素材の特徴を生かして機能的に作られています。
木彫りのクマなどの彫刻やお盆、アットウシ製のコースターや巾着袋などの手工芸品など、アイヌならではの技術と造形美が感じられる逸品揃いです。
北海道アイヌ協会主催で、アイヌ伝統の刺繍講習会も行われています。
アイヌ特有の風習
赤ちゃんの呼び名は、「テイネシ(濡れた糞)」や「ソン(糞)」と呼ばれていました。
わざと汚い名前で呼び、魔物を近づけないようにしたとされています。
生まれてから数年経って後、誕生した時のエピソードやその子の個性がわかってから正式に名づけられたようです。
また、名前を呼ぶというのは、よくないことされ、特に女性が夫の名前を呼ぶのは忌み嫌われていました。
男の子は、成長するにつれて、主に狩猟や漁撈の仕方、木彫りや印の彫り方、儀礼での作法などを学ぶようになります。
女の子は、着物の文様を書いたり、縫物をしたり、樹皮から繊維を取る方法を学んだりしました。
また、初潮を迎える時期になると、口の周りや手の甲に入れ墨を入れていたようです。
アイヌの音楽
アイヌには、独特の文化がありますが、音楽もその一つです。
アイヌ楽器のトンコリ、トンクル、ムックリなどでその音楽を奏でられるというのは、ひょっとしたらアイヌ出身であるがゆえかもしれません。
沖縄の島唄に通ずるような、なんとなく懐かしく、心に響くアイヌ音楽、一度聴いてみてはいかがでしょうか。
アイヌの身体的特徴
身体的特徴として、体毛が太く長い、または濃い、目と眉の間が狭く、くぼんでいるなど、はっきりした顔立ちが多く見られます。
宇梶さんを始めとして、まさに美男美女が多いのもうなずけますね。
どちらかというと、四角い顔立ちで髪の毛は縮れ毛、背も低めの人が多いようです。
アイヌ末裔
最近では、アイヌの末裔であっても公表する人が少ないようです。その背景には、歴史的な事実や差別などさまざまな理由が考えられます。
しかし、公表していないだけで数多くの人たちがいるのは確かでしょう。
ロシア人や和人との交流により、純粋なアイヌの人はすでにいないと思われていますが、末裔としては絶えることなく続いているはずです。
ただ、血筋としては末裔であっても、現在ではアイヌ語もわからず、文化や慣習などもあまり伝わらず、薄れがちになってしまっているのではないでしょうか。
アイヌを感じる場所
実際にアイヌの精神に触れられる場所をご紹介します。
木彫りや刺繍、古式舞踊などが体験できるのは、なかなかできない貴重な体験です。
阿寒湖アイヌコタン
阿寒湖観光の定番コースになっています。
アイヌ古式舞踊やイオマンテの火祭り、人形劇などを見ることができます。
アイヌの民家を再現したアイヌ生活記念館では、当時の生活用品や衣服などを展示しています。
刺繍や木彫りの体験などもでき、ムックリという楽器の製作や講習会にも参加できます。
二風谷アイヌ文化博物館
主に民具を中心に数多く展示されています。
大きな刺繍を施した衣服や手甲、脚絆などもあります。
見事な彫刻を施した祭具類も数多く展示されています。
どの道具も便利で機能的に作られており、当時の生活が思い浮かぶようです。
こちらでは、刺繍や木彫り、ムックリ製作体験のほか、古式舞踊も体験できます。
この地域では、アイヌの文化遺産が多くあり、町内を散歩してみるのもおすすめです。
札幌市内のアイヌに触れられるスポット
小規模ですが、札幌市内にもアイヌを感じることができるスポットがあります。
一つは、市内から車で1時間以内にある札幌市アイヌ文化交流センターです。
こちらでも、アイヌの建物が再現されており、いろいろな民具や衣料品などが展示されています。
不定期ですが、古式舞踊などのイベントもあります。
もう一つは、2015年に開館したばかりの北海道美術館です。
復元されたアイヌの建物と、生活用品などの民具が展示されています。
展示物が中心ですので、直接の体験はできませんが、アイヌの独特な文化を感じとることはできるでしょう。
特にアイヌ語に関して詳しく展示されているので、興味のある方はぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
博物館では、じっくり時間をかけて、アイヌの世界を堪能してみることをおすすめします。
アニメにも登場!
みなさんは、アニメ「ゴールデンカムイ」というのを知っていますか?
アイヌの少女が登場するこのアニメ「ゴールデンカムイ」は、アイヌの生活や文化など、わかりやすく取り入れています。
アイヌ民族博物館や北海道アイヌ協会からも、高い評価を得ていて、最近の漫画関係の賞で数多く受賞しています。
丁寧に描かれたアイヌの様子が大変面白く、読み応えがあると感じます。
ぜひ、ご覧になってみてはいかがでしょうか。
まとめ
以前と比べて、今は少数民族となってしまったアイヌの人たち。
しかし、北海道だけではなく、首都圏を始めとして、日本の多くの地域に住んでいます。
またそのスピリットは、どこにいても、まだまだ心の奥底に根差していることは間違いないでしょう。
宇梶さんの、いかにも男性的で一本筋の通った雰囲気からもよく伝わってきます。
自然を敬い、自然と共存してきたその生き方は、現代の日本人が忘れてしまっている自然への本来あるべき対応なのかもしれません。
アイヌの音楽は、自然への祈りとともに、どこか懐かしく、心に響くものが感じられます。
今は、生演奏で聴くことがなかなかできないのが残念ですが、CDなどでぜひ聴いてみてはいかがでしょうか。
北海道の大自然が目の前に浮かんでくるようです。
芸能界ではもちろん、政治や芸術などいろいろな世界で活躍するアイヌの人たち。
これからの活躍も、大いに期待したいところですね。
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