- 武士と浪人の違いは?
- 武士が浪人になる経緯やその理由は?
- 江戸の町には身だしなみの規制があった
- 武士としての身分は低い?
「武士」や「浪人」という言葉を私たちは日常生活で時に耳にしますが、これらの意味をご存知ですか?またその違いについて説明できますか?
歴史の時間に教科書を通じて習ったこれらの言葉ですがその理解されている方は少ないのではないでしょうか。今回は「武士」、「浪人」の意味とその違いについてまた、その身分や階級について考えてみましょう。

武士と浪人 どこがどう違うの?
武士とは?浪人とは?
武士とは武芸をおさめて主君に仕え、戦(現代でいう軍事)にたずさわった者のことをさし、武者、兵(つわもの)とも呼びます。
武士は支配階級となりますが上級武士から下級武士まで様々な身分があり領地によっても地位が変わったりしたといわれます。
浪人とは仕える主君を持たず、自分の生まれ育った領地を離れ流浪する者をさします。
現代社会にあてはめると、武士は企業や組織に属する社員で役職によっては大勢の部下をもつようなイメージです。
一方、浪人とは会社倒産やリストラなど何らかの理由で企業や組織に属さないいわばフリーランス、若しくはニートといった感じではないでしょうか。

上級武士や下級武士など武士にも様々な階級
武士にも階層が分かれていた
支配階級であった武士にも細かく階層が分かれており、厳密にいえば上級武士、中級武士、下級武士に分かれていたといわれます。
武士の階級を整理してみると、侍(さむらい)、徒士(かち)、足軽(あしがる)といった順番です。侍のみが上級武士と呼ばれ、最も上位に位置する武士でありました。
藩によって多少異なりますが侍は全体の20パーセント程度であったとされています。侍は馬に乗ることが許されており、逆の言い方をすれば侍以外の武士には騎乗資格はありませんでした。
次に、徒士ですが、武士ではあるものの騎乗が許されない身分でした。徒士がいわば中級武士にあてはまるのではないでしょうか。
最後に足軽は下級武士で、当然騎乗が許される身分ではなく主君へのお目見えも許されませんでした。

浪人は現代でいうニート?
武士が浪人になる経緯は?
浪人と似たことばで浪士がありますが、浪人とはどちらかといえば「失業者」という意味合いが強くなります。浪士は自らの意志で主家を退くか、または大きな事を成し遂げようとする意志があるものという意味合いがあります。
浪人となる経緯や理由は様々で、本人が罪を犯したり本人に落ち度があり責任を取って士官先を辞め浪人になることや、主家が潰れたり跡目が居ないため御家断絶など当の本人にはどうすることもできない理由などがありました。
また、江戸中期になると財政難のため多くの藩で人員削減が行われ、これによる生活苦などから浪人になる者が増えました。現代の日本でも起こっている企業倒産や業績不振によるリストラにより職を失うサラリーマンのようなものではないでしょうか。

月代を伸ばした浪人は町を歩けない?
江戸時代、浪人は取り締まりの対象?
幕府の大名廃絶製作によって「牢人」は増え続け徳川三代将軍の時代にはその数50万人に達したとの記述があります。また各地で労働力が不足していたことを背景に、武士の身分を捨て町人や百姓になる者もいました。
幕府は大阪の陣や島原の乱に「牢人」が大量に加わったことを理由に、警戒し町中から追放したり居住の制限をするなど厳しい製作をとりました。
この結果「牢人」たちの生活はますます追い詰められ、とうとう幕府転覆計画を引き起こすことになります。この頃より流浪の「牢人」や未士官の「牢人」を浪人と呼ぶようになったとされます。
浪人は常に不穏分子として監視対象にされ、町中で住むためには旧主君、親類や知人などに身元保証をしてもらい町の顔役と町を管轄する役所から手形という「証明書」をもらう必要がありました。
前に書きましたが浪人は「牢人」と呼ばれたほどで、基本的には追い払いの対象となりました。
見知らぬ浪人が江戸の町中に入ってくると宿無しものとしてみなされ取り締まりの対象となったといれ、場合によっては僻地に労働力として送られたそうです。
江戸時代、江戸の町は身だしなみが重要視され細かい身だしなみについて規制されていました。
時代劇によく出てくる浪人はみだれ(ボサボサ)髪のようなイメージですが、実際はこのようなヘアースタイルでは江戸の町中を歩くことが出来なかったそうです。
そうです江戸では武士も町人も月代を伸ばして外出することはできず、ましてや浪人がボサボサ髪で江戸の町中を闊歩するなんてまさに捕まえてくれといわんばかりの髪型で絶対にありえない話です。
江戸時代のみだしなみについて、ついでに付け加えると。武士が手ぬぐいを懐に入れたときは何人たりとも道を譲るという決まりがありました。
懐に手ぬぐいを入れるということは、公の仕事をしているという目印であったので全てが優先されました。
武士や町人が帯に扇子をさしていましたが、暑い日に煽ぐためではなくこれも身だしなみの一つでした。外出時には帯にさし、部屋の中では帯から抜いて手目に持つのが礼儀で、座敷では前方に置くのが決まりでした。
暑い日に顔を煽ぐにしても扇子をほんの少しだけ開いて目立たないように煽いだといわれています。
このように江戸の町は髪型だけではなく様々な身だしなみに対する決まり事があったようです。

四民平等政策により浪人という身分は消滅
武士としての身分は低い?
江戸時代の浪人は武士としての身分を失っていましたが、苗字帯刀は許されていました。
前に説明しましたが、浪人の日常生活は町人と同じく町奉行により監視されており、日々の生活自体も苦しくその日暮らしを余儀なくされたため、自暴自棄になり犯罪に走った者もいました。
しかし中には商人として出世した者や文芸の世界で成功した者、町道場を開き武芸の道で生計を立てるもの、寺子屋の師匠となり教育関係で活躍する者もいました。
宮本武蔵は多数の弟子を抱えた道場主であり後世に書画を残すほど生活に余裕があったとされています。
また、特異な例として山田浅右衛門がいます。山田浅右衛門はれっきとした幕府の役目を負う立場でありながら牢人の身分でした。
幕末になると浪人は政治運動にも積極的に参加したとされています。坂本龍馬は何かと制約の多い土佐藩から自ら脱藩し浪人となり、自由な立場でのちに活躍しました。
一方で、町人や百姓などの武士でない身分でありながら勝手に苗字帯刀をして浪人を名乗る者もあらわれました。
その例として「新撰組」がありますが、構成員の多くが町人や百姓などの出身者でありました。
浪人という身分は日本が明治維新を迎え、四民平等の政策がとられると次第に消滅していきました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は「流浪の武士となる経緯や浪人との違いは?武士としての身分は低い?」についてまとめてみました。
武士とは支配階級で、諸藩の殿様に仕えている武士のことで殿様から収入をもらっており、浪人とは諸藩の殿様から解雇された元武士のことを指しました。
身分は低く常に町奉行の監視対象になっていたことや浪人の大半がその日暮らしの苦しい生活をしていたことがわかりました。
私たちが時代劇で見る「浪人」のイメージとはややかけ離れているのではないかと感じたりしますね。
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